愛の夢
『悲愴』の最後の音が静かに消えていく。
鍵盤から手を離すと、ほんの少し、心が震えた。
(今の音は……届いたでしょうか?)
遥の視線を感じる。
そっと目を向けると、彼はただ静かに私を見つめていた。
(遥さん……)
その目には、何かを語るような、でも言葉にはならないような感情が滲んでいた。
何かを聞きたくて、でも、聞いたら戻れなくなる気がして——
琴音は、視線をピアノへ戻した。
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次に弾く曲は、決めていた。
リスト『愛の夢』
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(この曲を弾くのは、初めてではない)
でも、今日のこの瞬間、この音には、今までとは違う意味がある。
遥さんが、『悲愴』の楽譜を私にくれたように。
私も、音で伝えたいことがある。
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鍵盤にそっと手を置く。
指先が、微かに震えていた。
遥に気づかれないように、小さく息を整える。
(……大丈夫)
ゆっくりと、最初の音を奏でる。
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——夜のカフェに、優しい旋律が広がっていく。
穏やかで、どこまでも甘く、どこまでも切ないメロディ。
まるで、夜に咲く花のように、静かに空気の中に溶けていく。
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『愛の夢』。
それは、遥さんに出会ってから、私の心に芽生えたもの。
遥さんは、ただそっと寄り添ってくれた。
私の過去に触れながらも、決して踏み込みすぎず、ただ、私の背中を押してくれた。
(私は、こんなふうに想われたことがあっただろうか)
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「おお、愛しうる限り愛せ」
この曲の歌詞には、そんな言葉がある。
愛とは、ただ与えるもの。
見返りを求めず、ただ純粋に、誰かのためを想うもの。
遥さんが、私にくれたものは、きっとそういうものだった。
そして——
(私のこの音も、きっと……)
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指が、迷いなく鍵盤をなぞる。
旋律が、優しく、柔らかく紡がれていく。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
遥さんに、伝えたいことがある。
でも、言葉では言えない。
だから——
(この音で、伝えられるでしょうか?)
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愛しうる限り、愛せ。
その言葉の意味を、私はきっとまだ全部は理解できていない。
でも、もしそれが、遥さんへのこの気持ちのことだとしたら。
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音が、穏やかに、そして確かに響いていく。
遥さんのいる方向へ。
届くように、そっと、優しく。
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最後の音が、静かに消えた。
琴音は、そっと目を閉じた。
(この音は……遥さんに届いたでしょうか)
胸の奥で、静かにそう願う。
そして、ゆっくりと目を開けると——
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遥が、じっと私を見ていた。
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『悲愴』が終わったあと、琴音は静かに鍵盤から手を離した。
遥は、琴音の横顔を見つめる。
彼女は、少しだけ息を整え、再び指を鍵盤の上に置いた。
次の曲のために。
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(……次の曲を?)
遥は、琴音が奏でる音を全て聴きたくて、じっとその指の動きを見つめた。
そして——
最初の音が、そっと流れ始める。
リスト『愛の夢』——
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静かで、優しく、どこまでも甘い旋律。
(これは……)
遥は、瞬間的に感じた。
(『献呈』とは違う……『悲愴』とも)
音が、そっと心に触れる。
静かで、穏やかで、でもどこか温かくて。
まるで、遥自身のことを包み込むような——
(これは……)
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「おお、愛しうる限り愛せ」
歌詞がないはずの音楽なのに、遥の頭の中には、その言葉が浮かんでいた。
愛しうる限り——愛せ。
(琴音さんは……この曲を、どんな想いで弾いているんだろう)
遥は、目を閉じて音に耳を傾ける。
まるで、言葉のように語りかけてくる旋律。
(琴音さん……これは、あなたの音ですか?)
それとも——
(僕に向けられた音ですか?)
心がざわめいた。
彼女が、何を思ってこの音を弾いているのかを、確かめたくなる。
けれど、それを確かめるのが怖いような気もする。
もし、今の僕が、何かを言葉にしてしまったら。
この音の意味が、変わってしまう気がするから。
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音が、優しく響く。
柔らかく、まるで遥の心に直接語りかけるように。
(これは……)
遥の胸の奥が、熱くなる。
これは、ただのピアノの音じゃない。
ただの美しい旋律じゃない。
(琴音さんの、想い……?)
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遥は、琴音の横顔をそっと見た。
彼女は、いつもより柔らかい表情をしている。
けれど、その指先は、迷いなく鍵盤の上を滑っている。
遥は、気づいた。
(琴音さんの音が……変わった)
「ただ弾くだけ」じゃない。
彼女は——
「誰かのために」弾いている。
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音が、遥の心に染み込んでいく。
優しくて、でも強くて、どこか切ない音。
遥は、心の奥で、ある確信に至った。
「僕は、琴音さんの音に惹かれている」
そして、ただ音だけではなく——
その音を奏でる彼女自身に、惹かれている。
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最後の一音が、静かに消えた。
琴音が、そっと目を閉じた。
遥は、その姿をじっと見つめた。
そして——
琴音が、ゆっくりと目を開ける。
遥の視線と、琴音の視線が、静かに重なった。
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「……」
言葉が、出てこない。
でも、何かを言わなければならない気がする。
でも——
言葉よりも、もっと大事なものが、ここにある気がして。
遥は、ただ、琴音を見つめ続けた。
琴音も、遥を見つめたまま、何も言わなかった。
だけど——
お互いに、伝わるものがあった。
遥は、その沈黙の中で、確信した。
「この気持ちは、もう止められない」
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