悲愴
『献呈』の最後の音が、静かに消えていく。
指先が鍵盤からそっと離れると、心の奥がふっと軽くなっていることに気づいた。
音が空気に溶けていく余韻の中で、ふと思う。
「私は……音を届けられただろうか」
遥は、どんなふうに聴いていたのだろう。
ゆっくりと、少しだけ視線を上げる。
遥は、静かに座っていた。
表情は穏やかで、けれど、何を考えているのかはわからない。
でも——
彼の瞳は、まっすぐこちらを見ていた。
その視線が、たまらなく嬉しくて。
でも、同時に、どこか怖くもあって。
琴音はそっと、視線を外した。
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鍵盤の上に、そっと手を置く。
次に弾く曲は——
ベートーヴェン『悲愴』第2楽章。
譜面台に、特別な楽譜を静かに置いた。
深い青の薔薇がエンボス加工された表紙。
繊細な模様が、柔らかな光を受けて浮かび上がる。
ページを開くと、挟まれていた一枚の栞が目に入った。
ミルテの花が描かれた栞。
遥がくれた、大切なもの。
「希望・幸福・愛」—— そんな花言葉を持つ花。
(遥は、どんな想いで、この楽譜を選んでくれたんだろう)
私が「母に贈りたかった曲」だと、知っているはずなのに。
でも、それだけじゃない。
もっと別の、深い意味がある気がして——
けれど、その答えはまだ、言葉にならない。
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初めて楽譜を手にした日のことを思い出す。
「もし、弾いてもいいと思えたら」
「この曲を、誰かに贈りたいと思えたら」
「そのとき、弾いてほしい」
遥がそう言って、そっと差し出した楽譜。
あのとき、私は戸惑った。
ピアノに向き合うのが、まだ怖かったから。
それでも——
ページを開き、音符を目で追った瞬間、
静かに流れる旋律に、心が奪われた。
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「静かで、でも……どこか、泣いているような曲」
初めてそう感じた。
悲しみを抱えながらも、穏やかに語りかけるような音楽。
(遥は、私に「この曲を弾いてほしい」と思ったのだろうか)
それとも——
(私自身が、この曲を弾くべきだと、思ったのだろうか)
ずっと考えていたけれど、答えはまだ見つかっていない。
でも——
今なら、わかるかもしれない。
音を形にすれば、言葉にならない想いが見えてくるかもしれない。
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指が、鍵盤に触れる。
遥がくれた音楽を、今度は私の音として紡ぐ。
——最初の音が、静かに流れた。
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ゆったりとした旋律が、カフェの空間を満たしていく。
穏やかで、優しく、でもどこか切ない響き。
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(この音は……遥がくれた音)
楽譜を手にしたとき、遥は何を考えていたんだろう。
私に、この音を、どう聴いてほしかったんだろう。
(遥……)
無意識に、彼の存在を意識してしまう。
視線を向けるわけでもなく、ただそこにいると感じるだけで、心がざわめいた。
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悲しみを抱きながら、それでも前を向こうとする音。
ピアノが語る言葉が、私の中に静かに溶けていく。
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音が少しずつ強くなる。
胸の奥が熱を帯びていく。
遥が、この楽譜をくれた理由——
(……今なら、少しだけ、わかる気がする)
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「悲しいままじゃ、いられないんです」
ふと、遥の言葉が蘇った。
「だから、前に進みたい」
これは、遥の音だったのかもしれない。
彼が、私に届けてくれた音。
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最後のフレーズが、そっと消えていく。
鍵盤から、手を離す。
呼吸を整える。
遥は、どう聴いてくれたのだろう。
ゆっくりと視線を上げた。
遥の表情は——
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『献呈』が終わったあと、琴音はそっと息を整え、鍵盤の上に指を戻した。
静かな間。
——次の音が、ゆっくりと流れ始める。
遥は、最初の旋律を聴いた瞬間に気づいた。
『悲愴』——僕が琴音さんに渡した楽譜だった。
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なぜ、この曲を渡したのか。
それは、琴音さんが本当に弾きたかった曲なのではないかと思ったから。
カフェで一人、閉店後にピアノを見つめる彼女の姿を見たとき。
どこか迷っているような、でも諦めたくないような。
そんな表情をしていた。
だから、僕はこの曲を選んだ。
「琴音さんが本当に弾きたかった曲なんじゃないかと思って」
あのとき、僕はそう言った。
琴音さんは、小さく微笑んで「ありがとう」と言ったけれど——
その手が、少しだけ震えていたのを覚えている。
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(琴音さんは……どんな想いで、この曲を弾いているんだろう)
遥は、彼女の指先を見つめた。
鍵盤の上を滑る指。
静かで、でも確かに強い意志を持った音。
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遥は、この曲を渡すときに迷いがなかったわけではなかった。
(もし、琴音さんが本当にピアノを辞めたいのなら)
(これは、余計なお世話なんじゃないか)
でも、それでも——
(彼女の音が、もっと聴きたいと思ってしまった)
それが、自分の本音だった。
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静かな旋律が、心に染み込んでくる。
音楽には、言葉がない。
でも、琴音さんの音は——
(こんなにも、何かを語りかけてくる)
彼女は、何を伝えようとしているんだろう。
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『悲愴』は、悲しみを抱えながらも、希望のある音楽だった。
穏やかで、でも切なくて。
遥は、ふと思った。
「これは、琴音さんの音なのか?」
それとも、僕が彼女に届けた音なのか。
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遥は、じっと琴音の横顔を見つめた。
彼女の瞳は、鍵盤の上に静かに落ちていた。
その表情は、はじめてこの曲の楽譜を渡したときよりも、ずっと柔らかく、ずっと強いものに見えた。
(……届いているのかな)
僕の音は、琴音さんに。
そして、琴音さんの音は——
(僕の心に)
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最後の音が、そっと消えていく。
琴音が、静かに鍵盤から手を離した。
遥は、その瞬間、確信した。
「僕は、この人の音が好きだ」
それは、ただの憧れではなく。
ただの感動でもなく。
もっと深く、もっと確かなものだった。
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琴音が、ゆっくりと遥の方を見た。
遥も、琴音を見つめた。
互いに言葉はなかった。
けれど、その沈黙の中で、確かに何かが生まれていた。




