ミルテの花
シューマン『ミルテの花』より『献呈』——
この曲を弾くのは、どれくらいぶりだろう。
指先が鍵盤に触れた瞬間、遠い記憶がそっと溶け出す。
母とよく弾いた曲。
私がまだ、「音を届ける」ということを、疑いもなく信じていた頃の曲。
鍵盤を滑る指。
紡がれる音のひとつひとつが、胸の奥の奥へと降り積もる。
そのたびに、心の奥底に沈んでいた何かが揺らぎ、微かに熱を帯びていく。
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「君は私の魂 君は私の心」
「君は私の喜び 君は私の苦しみ」
歌詞があるわけではないのに、旋律が言葉のように胸を打つ。
まるで、沈黙の中で誰かがそっと語りかけるように。
——「あなたにすべてを捧げる」
愛を綴るこの曲を、母はいつも、父のために弾いていた。
そして私は、母とともに奏でた。
まだ、「誰かのために音を弾く」ということを、何の迷いもなく信じていた頃の私。
けれど——
(私は……今、この音を、誰に届けたいのだろう?)
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遥のことが、ふと頭に浮かぶ。
彼がバイトを始めてしばらく経った頃だった。
カウンターでコーヒーを淹れていた私に、遥が何気なく尋ねた。
「琴音さん、ピアノを弾かれるんですか?」
その問いかけに、一瞬、手が止まりかける。
けれど、私はすぐに微笑み、答えた。
「……昔は、よく弾いていました」
あのとき、確かに私は少し戸惑っていた。
「昔は」——そう、自分に言い聞かせるように。
(私は、本当に『弾かなくなった』んだろうか?)
遥の問いかけが、心の奥深くに小さな波紋を落とした。
何気ない一言だったのかもしれない。
けれど、それは静かに私の中に残り続けた。
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そして今——私は、彼の前で弾いている。
ふと、胸が高鳴る。
(私は……遥のために、弾いている?)
指先が、わずかに震えた。
紡がれる音が、かすかに揺れる。
遥に、届くだろうか。
この音が、彼の心に、触れるだろうか。
(……いいえ)
違う。
もう、届いているのかもしれない。
遥は、すでに——
「琴音さんの音は、もう届いていますよ」
そう、言ってくれた。
なら、私は——
今度は、私から届けよう。
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音が、確信を帯びていく。
迷いを手放し、澄んだ響きとなって広がる。
強く、けれど優しく——
穏やかに、心の奥深くへと落ちていく。
そして、最後の一音がそっと空気に溶けたとき、琴音は静かに目を閉じた。
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(遥は……今、この音を、どう受け止めたのだろう)
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最初の音が響いた瞬間、遥は息をのんだ。
澄んだ音色が、静かに店内を満たしていく。
琴音のピアノは、こんなにも心を震わせるものだっただろうか。
一音ごとに、空気が変わっていく。
音に染められた時間が、ゆっくりと流れ始める。
静かで、けれど温かく、どこか切なく——
遥の心の奥深くへと、波のように静かに押し寄せてくる。
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(……この曲は)
どこかで聴いたことがあるような気がした。
でも、それが「いつ」「どこで」なのか、思い出せない。
ただ、琴音の指先から紡がれる旋律は、言葉のない語りかけのようで——
遥は、そっとまぶたを閉じる。
(これは……琴音さんの音だ)
旋律が、彼女自身の想いをそっと映し出しているように感じた。
遥は、ゆっくりと視線を上げる。
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ピアノの前の琴音。
静かな横顔に、普段よりもわずかに柔らかな表情が浮かんでいるように見えた。
けれど、その指先が紡ぐ音は、どこか強く、迷いのない響きを持っている。
(これは……誰に向けられた音なんだろう)
遥の胸の奥が、静かに揺れた。
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「君は私の魂 君は私の心」
「君は私の喜び 君は私の苦しみ」
歌詞のないピアノ曲なのに、旋律がそう語りかけてくる。
言葉がなくても、心に直接触れるような音。
(まるで、愛の歌みたいだ)
胸の奥に、微かなざわめきが生まれる。
琴音は、この曲にどんな想いを込めているのだろう。
誰のために、この音を弾いているのだろう。
——まるで、自分に向けられているかのような。
けれど、それを確かめるのは、どこか怖かった。
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遥は、ふとバイト中のある会話を思い出す。
カウンター越しに、琴音に尋ねたことがあった。
「琴音さん、ピアノを弾かれるんですか?」
そのとき——琴音は、一瞬だけ驚いたような表情を見せた。
けれど、すぐに少し考え込むようにして、静かに答えた。
「……昔は、よく弾いていました」
その言葉とともに浮かんだ表情は、どこか遠くを見つめるようで——
まるで、心だけが過去に寄り添っているようだった。
(でも、今の琴音さんは——)
遥の目の前で、指先が紡ぐ旋律。
あのときの琴音とは違う。
彼女は今、確かにここにいる。
遠い記憶ではなく、今、この瞬間に。
(この音は……誰のために弾いているんだろう)
遥の胸の奥に、静かなざわめきが広がる。
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音が、そっと遥を包み込む。
柔らかく、けれど確かに心の奥へと染み渡っていく。
(こんなにも、誰かの音に心を揺さぶられたことがあっただろうか)
音楽は、ただの旋律ではない。
人の想いをのせて、誰かの心に届くもの。
そう、琴音の奏でる音は——
(僕に、届いている)
遥は、それを確信した。
けれど、琴音自身はどうなのだろう。
彼女はまだ、「音を届ける」ことに迷っているのだろうか。
(いや……違う)
今の音には、迷いがなかった。
それはまるで——
(まるで、「誰かのために」弾いているような……)
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音が静かに消えていく。
最後の一音が空気に溶けた瞬間、遥は気づいた。
胸の奥で、確かに何かが変わり始めている。
心臓の鼓動が、いつもより速い。
そして——
琴音の音が、自分にとって「特別なもの」になってしまったことに。
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琴音が、そっと鍵盤から手を離した。
余韻だけが静かに空気を満たし、やがて消えていく。
遥の視線が、自然と琴音へと向かう。
そして、琴音の瞳が、静かにこちらを見つめていた。
「——」
何かを言おうとした。
けれど、言葉になる前に、琴音はそっと視線をピアノへ戻す。
そして、迷いなく、次の曲へと指を置いた。
その仕草に、遥の胸の奥で、言葉にならない何かが静かにこみ上げる。




