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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
ほんの少しの甘さを
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生まれる音

江の島の潮風が、カフェの窓を優しく揺らしていた。


営業をしていない静かな店内には、普段の喧騒とは違う、穏やかな時間が流れている。

外から微かに聞こえる観光客の声さえも、ここでは遠く、どこか夢のように霞んでいた。


遥は、カウンターの奥で静かに片付けをしていた。

ふと手を止め、視線を上げる。


琴音が、ピアノの前に座っていた。


カフェの奥に佇む古びたアップライトピアノ。

長い間、音を失っていたそれは、今この瞬間、彼女の意志を映し出すかのように、ただ静かにそこにあった。


遥は、自然と息を呑む。


(また、弾くんだ——)


何度か見てきたはずの光景なのに、その姿が今までとは違って見えた。


迷いなく鍵盤へと向かう彼女の背中は、どこか凛としていて、揺るぎない何かを秘めている。

それは、過去に囚われていた頃の琴音ではなかった。


彼女は、そっと鍵盤の上に手をかざしたまま、静かに視線を上げる。


遥の目が、その瞳とぶつかる。


吸い込まれるような、深いまなざし。


そして——


「……ちゃんと、聴いていてくださいね」


その言葉は、静寂の中で確かに響いた。


遥の心臓が、一瞬、大きく跳ねる。


彼女の声は、決意の色を帯びていた。


(これは……僕に向けられた音なのか?)


琴音は、まるで慎重に歩みを進めるように、鍵盤に触れる前の一瞬を大切にしているようだった。


遥は、カウンターに置いた手を静かに握る。

このままでは、きっと彼女の音を、ただ聴いていることしかできなくなる。


けれど——それでいいと思った。


(今の彼女の音は、どんな音なんだろう……)


彼女のピアノには、静かに何かが宿っている。

それは、ただの旋律ではなく、「琴音」という人そのもの。


そして、次の瞬間——


琴音は、鍵盤にそっと指を置いた。


ほんのわずかに、彼女の肩が揺れる。

それでも、迷いなく——


——最初の音が、静かに、柔らかく、響いた。


まるで、そっと触れるように。

まるで、誰かをそっと抱きしめるように。


カフェの空気が、一瞬で変わる。


遥は、思わず息を呑んだ。


(……これは)


誰のためでもなく、ただ純粋に生まれた音。

彼女自身の音。


けれど——遥は、確かに感じていた。

この音が、自分へと向かっていることを。


カフェ ミルテの静かな休日に、それはゆっくりと溶けていくようだった。

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