バイト初日
翌日、遥はカフェ ミルテのカウンターの内側に立っていた。
「じゃあ、最初は洗い物とテーブルの片付けをお願いします」
琴音がそう言いながら、シンクの前を指さす。
「わかりました」
遥は袖をまくり、シンクに並んだカップを手に取る。
水を流しながら、スポンジで優しく洗う。
「……手際がいいですね」
琴音が、隣でカウンターの上を拭きながら言った。
「まあ、飲食店で働いた経験もありますし」
「そうなんですか?」
「学生の頃に、ちょっとだけ」
琴音は小さく頷いた。
「じゃあ、仕事はすぐに覚えられそうですね」
「琴音さんのやり方に合わせますよ」
そう言うと、琴音はふっと目を伏せた。
「……無理に合わせなくても大丈夫です」
「?」
「この店は、私のやり方だけが正解じゃないので」
淡々とした口調だったが、どこか柔らかい響きがあった。
「だから、潮見さんがやりやすいようにやってください」
遥は、カップをすすぎながら、琴音をちらりと見た。
(そういう考え方なんだな)
彼女は、決して「自分のやり方を押し付ける」タイプではない。
でも、きっと「誰かに頼るのも、まだ慣れていない」んだろう。
遥は小さく微笑み、続けてカップを洗った。
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しばらくして、最初の注文が入る。
「潮見さん、ホットのブレンド一つお願いします」
「了解です」
遥は、カウンターの奥にあるコーヒーメーカーの前に立った。
(……さて、うまくできるか)
メジャースプーンを手に取り、豆の量を計る。
琴音がいつも通りに見える場所で、遥はそっと彼女の手つきを思い出した。
「お湯は、最初に蒸らしながら注ぐといいですよ」
「はい」
慎重に、お湯を細く注ぐ。
コーヒーの香ばしい香りが、ふわっと立ち上った。
琴音が、カウンター越しにじっとこちらを見ている。
「……上手ですね」
「本当ですか?」
「ええ。初めてにしては、綺麗に注げてます」
遥は、少しだけ肩の力を抜いた。
「琴音さんみたいに淹れられるようになったら、一人前ですかね?」
遥がそう言うと、琴音は少しだけ驚いたようにまばたきをした。
「……そうですね」
カウンターの向こうで、静かに頷く。
「でも、"私みたいに" というのは、あまり意識しなくてもいいと思います」
「え?」
「コーヒーの淹れ方には、正解がないんです」
琴音は、軽く指先でカップの縁をなぞる。
「私のやり方が絶対ではないし、塩見さんには塩見さんの淹れ方があるはずです」
遥は、一瞬考える。
「でも、まずは基本を覚えないとですよね?」
「それは、そうですね」
琴音は、ふっと微笑む。
「それに、基本を覚えた後で、自分のスタイルを見つけるのも、面白いものですよ」
遥は、カウンターの上のカップを見下ろした。
(自分のスタイルか……)
この店のコーヒーは、琴音の手の動きや、彼女の味覚が生み出すものだ。
遥が同じことをしても、同じ味にはならないかもしれない。
でも、だからこそ、「自分だけの味」 が作れるのかもしれない。
「……じゃあ、まずは琴音さんのやり方を完璧に覚えてから、自分のやり方を考えてみます」
そう言うと、琴音はわずかに目を細めた。
「いい考えですね」
静かな声だったけれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
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カウンターの奥、ポットの蒸気がゆっくりと立ち上る。
遥は、慎重に最後の一滴まで注ぎ終えると、カップをカウンターに置いた。
「できました」
琴音は、それを一瞥し、ゆっくりとカップを持ち上げた。
そして、ふっとコーヒーの香りを確かめる。
「……綺麗に淹れられていますね」
その言葉に、俺は小さく息をつく。
(よかった)
「これを、お客さんに出しても大丈夫ですか?」
琴音は、小さく頷いた。
「ええ、問題ありません」
それを聞いて、俺はゆっくりとカウンター越しにカップを差し出す。
「これからも、少しずつうまくなりますよ」
遥がそう言うと、琴音は静かに俺を見つめた。
「……そうですね」
琴音は小さく頷く。
「コーヒーの味は、すぐに完璧になるものではありません」
「はい」
「でも、毎日淹れていると、少しずつ自分の手の感覚が変わってくるはずです」
琴音の声は、穏やかだった。
「お湯の温度や、豆の挽き具合……細かい部分が、自分の中に染みついていく」
遥は、カウンターの上に置かれたカップを見つめる。
「……そうやって、"自分の味" になっていくんですか?」
「ええ」
琴音はふっと目を細めた。
「だから、焦らなくて大丈夫ですよ」
遥は、ゆっくりと息をついた。
「じゃあ、焦らずにやってみます」
琴音は、ほんのわずかに微笑んだ。
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それから、遥のカフェでの仕事が始まった。
最初は、洗い物やテーブルの片付け。
少しずつ、コーヒーを淹れる機会も増えていく。
「塩見さん、ミルクは先に温めてください」
「ラテアートは……難しいですね」
「最初はみんなそうですよ」
琴音に教わりながら、遥は少しずつ、この店の「味」を覚えていく。
そうして、日々は静かに過ぎていった。
けれど、その穏やかな時間の中で、遥の中には確かに何かが変わり始めていた。
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