[間章] 父の面影
カフェ・ミルテの閉店後、店内には静かな夜の気配が広がっていた。
カウンターの奥では、遥が黙々と片付けをしている。
その音を背に受けながら、琴音はふと、カウンターの一角を見つめた。
そこは、かつて——父が立っていた場所 だった。
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コーヒーの香りが広がる。
深く、穏やかで、どこか懐かしい香り。
「お前がピアノを弾いている時の顔は、母さんによく似てるな」
父は、そう言いながら、カウンターの奥でゆっくりとコーヒーを淹れていた。
無駄のない所作。
すべての動きが、迷いなく、なめらかに繋がっていく。
父の淹れるコーヒーは、まるで音楽のようだった。
フィルターにお湯を注ぐと、コーヒーの粉が膨らみ、ふわりと香りが立ち昇る。
それをじっと見つめながら、小さい頃の琴音は、カウンターの椅子にちょこんと座っていた。
「……どうして、そんなに丁寧に淹れるの?」
「決まってるだろう」
父は、楽しそうに笑った。
「この一杯を飲んだ誰かが、少しでも幸せを感じてくれるかもしれないからさ」
カップに注がれたコーヒーは、艶やかに深い色をしていた。
けれど、その苦みの奥には、かすかに甘さが滲んでいた。
父の味だった。
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(私は、父の味を、受け継いでいるのだろうか)
カウンターにそっと手を添える。
父がここに立っていた頃の温もりが、まだ微かに残っている気がした。
父が愛したこの場所。
父が守ろうとしたカフェの味。
(私は、ここにいる)
それだけは、はっきりと言える気がした。
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「……琴音さん?」
遥の声に、琴音は顔を上げた。
カウンターの向こう側で、遥がふと、彼女の方を見つめていた。
その手には、ちょうど片付け終わったカップ。
「……琴音さんのコーヒー、どこか懐かしい気がします」
琴音は、ゆっくりと目を伏せた。
「……父の味を、受け継いでいるのかもしれませんね」
ふっと、柔らかく微笑む。
遥も、小さく微笑み返した。
カフェ・ミルテの夜は静かだった。
けれど、二人の間には、温かい何かが確かに残っていた。
(父の記憶は、今もここに生きている。)
『珈琲と、ほんの少しの幸せを。』
店前の手書きの文字が添えられた木の看板が、そよ風に揺れていた。




