君に、届くように
遥がカフェを訪れた翌日、カフェ ミルテはいつもと変わらない午後の営業を迎えていた。
カウンター越しに客へコーヒーを提供しながらも、琴音の意識はどこか上の空だった。
遥の言葉が、ずっと心の中に残っていた。
「琴音さんの音は、もう届いていますよ」
その言葉の意味を、何度も噛み締める。
本当に——届いているのだろうか?
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ピアノの音が、誰かに届くという感覚を、琴音はもう長い間忘れていた。
弾く意味を見失い、音を出すのが怖かった。
けれど、あの夜、遥の前で指を鍵盤に置いたとき、初めて「弾きたい」と思った。
そして今——
遥の言葉が、確かに心を震わせていた。
「琴音ちゃん?」
ふいに、前田さんの声が響いた。
「あ……すみません。少し考え事をしていました」
「ふふ、いいのよ。忙しいのに悪かったわねぇ」
前田さんは紅茶を一口飲むと、にこりと微笑んだ。
「ねぇ、琴音ちゃん。また、ピアノを弾いてくれない?」
「え……」
「この前の音、すごく良かったのよ? なんというか……誰かのために弾いてる音に聞こえたわ」
琴音の手が、ふと止まる。
「誰かのために……?」
「ええ。前はどこか遠くを見て弾いてるような気がしたけど、この前は違った。誰か、特別な人のために弾いてる音だったわ」
「……」
心臓が、軽く跳ねる。
(そんなつもりはなかった……はずなのに)
(でも、もしかして……)
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ふと、カフェの隅に置かれたピアノに目を向ける。
鍵盤に触れたのは、ほんの数日前。
でも、それはもう「過去の話」だった。
(私は、また弾きたい)
(もう一度、遥の前で——)
——違う。
琴音は静かに目を閉じ、胸に手をあてた。
(私は……遥のために弾きたい)
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遥の言葉が蘇る。
「琴音さんの音は、もう届いていますよ」
なら、今度は——私から届けよう。
遥に向けた音を。
私の、心を。
「……前田さん」
琴音は、静かに口を開いた。
「次の休みに、ピアノを弾こうと思います」
前田さんは、驚いたように目を丸くした。
「まぁ、それは楽しみねぇ!」
琴音は、小さく微笑む。
「でも……今度は、今までとは違う演奏になると思います」
「違う演奏?」
「ええ……ただ弾くだけではなく、ちゃんと、私の音を届けたいんです」
ピアノの鍵盤をそっと撫でる。
「だから……自分が何を伝えたいのかを、もう一度考えてみます」
前田さんは、その言葉に目を細め、そっと微笑んだ。
「……きっと、あなたの音はちゃんと届くわよ」
琴音は、その言葉に静かに頷いた。
(——届くでしょうか?)
遥に、私の音は届くのだろうか。
不安と、期待と、ほんの少しの高揚感。
それが入り混じったまま、琴音はピアノを見つめていた。
ここまで読み進めていただき、本当にありがとうございます。
物語は、いよいよクライマックスの章へと入ります。
遥と琴音、そしてカフェ・ミルテの時間が、ひとつの終着点へと向かうなかで、
ふたりがどんな想いを抱き、どんな言葉を紡ぐのか——
その瞬間を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
そして、本日は22時の投稿とは別に、12時に間章を投稿予定です。
この間章は、物語の流れをより深く感じてもらえるような、大切な一篇となっています。
遥と琴音のこれまでの足跡、そして彼らが迎えようとしている未来を、
少しだけ違った角度から見つめる時間になるかもしれません。
物語の終わりまで、あともう少し。
カフェ・ミルテの扉が閉じるその時まで、どうぞ最後までお付き合いください。
次回更新も、心を込めてお届けします。




