気づいてしまった音
遥は、江の島駅前の商店街を歩いていた。
夕方の柔らかな陽光が、静かに街を染める。
カフェの営業が終わり、一息つきたい時間。
そんなとき——
「おーい、鈍感男!」
不意に、肩をポンっと叩かれた。
「うわっ!?」
驚いて振り向くと、赤髪をポニーテールに結んだ海歌が立っていた。
「な、なんですか急に……」
「いやぁ、お前の鈍さにいい加減ツッコんどこうと思ってさ!」
海歌は腕を組み、ニヤリと笑う。
「……何の話ですか?」
「とぼけんなよ、お前のことだよ」
遥が首を傾げると、海歌は呆れたようにため息をついた。
「いいか? そろそろ気づけよ。琴音、もうお前のこと見てるぜ?」
「……え?」
「この前の演奏の時、お前何も思わなかったのか?」
「この前の……?」
「『ちゃんと聴いていてください』って、琴音が言っただろ」
遥の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。
ピアノの前で、まっすぐに見つめてきた琴音の瞳。
「……それは、琴音さんがピアノに向き合おうとしているから、ですよね?」
「バッカ、お前それマジで言ってんの?」
海歌は呆れ果てたように笑った。
「琴音がピアノに向き合う理由、考えたことあんのか?」
「……それは、彼女が自分の音を取り戻すため……」
「違ぇよ」
海歌は遥の肩を軽く叩き、真っ直ぐに目を見た。
「琴音はな、もうお前のために音を鳴らしてるんだよ」
「……僕の、ため?」
「そ。お前の前だから弾く。お前に聞いてほしいから弾く。お前がいるから、あの音が出るんだよ」
遥は言葉を失った。
あの音は、僕のため——?
「……」
「ま、お前がどう思うかは自由だけどさ」
海歌はため息をつきながら、
「でもお前、これ逃したら、一生後悔するぞ」
と呟いた。
遥が少し驚いたように彼女を見る。
「そんなこと……ないですよ」
海歌は、ふっと鼻で笑う。
「……そう思ってた頃が、あたしにもあったんだけどな」
その言葉には、普段の軽口にはない、少しだけ遠い響きがあった。
「海歌さん……?」
「ん? なんでもねーよ」
海歌は悪戯っぽく笑い、遥の肩をポンと叩くと、軽やかに去っていった。
遥は、その場に立ち尽くしたまま、海歌の言葉を反芻していた。
(琴音さんは……僕に……?)
胸の奥が、ざわつく。
琴音の言葉、演奏、視線——
すべてが、違う意味を持ち始めていた。
遥は、そっと目を閉じる。
(……僕は、どうしたいんだろう)
海歌の「一生後悔するぞ」という言葉が、心に深く響いていた。
---
海歌と別れた後も、遥の足はなかなか前に進まなかった。
(琴音さんは……僕のために弾いてる?)
そんなはずはない。
琴音は、自分自身のためにピアノを弾いているんじゃないのか?
でも、海歌の言葉が、心に棘のように刺さっていた。
(お前の前だから弾く。お前に聞いてほしいから弾く。お前がいるから、あの音が出るんだよ)
——そんなこと、考えもしなかった。
ただ、琴音の音が好きだった。
ただ、それを聴いていたかった。
それだけだった。
でももし、それが——僕に向けられたもの だとしたら?
遥は、商店街の真ん中で立ち尽くしたまま、思考の渦に飲み込まれていた。
(琴音さんは……僕に届けようとしていた?)
胸の奥がざわつく。
心のどこかで、その可能性に気づいていたのかもしれない。
でも、目を逸らしていた。
(僕は……どうしたいんだ?)
遥は、そっと息を吐き、空を仰ぐ。
冷たい夜風が、肌を撫でるように吹き抜けていった。
---
一方。
海風に吹かれながら、海歌はふと足を止める。
遥がまだ、商店街の真ん中で立ち尽くしているのが見えた。
彼は、動けなくなっていた。
海歌は、それを見て小さく笑う。
「……やっと、気づき始めたか」
ポケットに手を突っ込み、ふっと夜空を仰ぐ。
(遅いんだよ、気づくのが。)
でも、そんなものかもしれない。
気づくべきときにしか、人は気づけないものなのだ。
遥も、琴音も。
そして、あのときの自分も——。
「……あたしも——あのとき、気づいてたら、何か違ったのかな」
海歌は、ポケットの中の「冷たい金属の感触」を確かめる。
青い薔薇のエンブレムがついた、古びたキーケース。
軽く指でそれをなぞり、「クスッ」と笑う。
(ほんと、バカみたいだよな)
「……ま、いっか」
肩をすくめると、何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き出した。
夜の江の島の街灯が、彼女の影を長く伸ばしていた。
---
遥は、何も考えたくなくて——
気づけば、カフェ ミルテに向かっていた。
江の島の街並みを歩きながら、頭の中には海歌の言葉が渦巻いていた。
「琴音はな、もうお前のために音を鳴らしてるんだよ」
本当に、そうなのか?
考えれば考えるほど、わからなくなってくる。
だから。
考えないようにしたかった。
扉を開けると、夕方のカフェにはまだ数組の客がいた。
窓から差し込む柔らかな陽光が、店内を穏やかに包んでいる。
そして、カウンターの向こう。
琴音が静かにコーヒーを淹れていた。
その姿を見た瞬間、遥の胸の奥がすっと軽くなる。
(……)
何を話すでもなく、ただその姿を見ていたいと思った。
無意識に、カウンター席に腰掛ける。
琴音の気配を、もっと近くに感じたくて。
遥が軽く手を挙げると、琴音が気づいて微かに目を見開いた。
「いらっしゃいませ……って、遥さんでしたか」
彼女は少し驚いた顔をしながら、穏やかに微笑んだ。
「お疲れさまです。今日はどうしました?」
遥は、なんと答えようかと一瞬迷った。
本当の理由を言えるはずもなく、口をついて出たのは——
「なんとなく、来たくなったんです」
その言葉に、琴音が一瞬まばたきをする。
「……なんとなく?」
「はい」
それ以上の言葉が出てこなかった。
琴音は、しばらく遥の顔を見つめていたが——
次の瞬間、ふっと目を細めるように微笑んだ。
「……そうですか」
静かで、どこか安心したような声だった。
遥は、なぜ琴音がそんな表情をしたのか考えた。
——でも、本当はわかっていた。
本当は、ただ、琴音の姿を見たかっただけなのに。
---
カフェ ミルテの静かな午後。
カウンターの向こうで、琴音は静かにコーヒーを淹れ始めた。
遥は、その指先の動きを見つめる。
お湯を注ぐ動作。
軽やかに響くカップの音。
丁寧で、繊細で——どこか、ピアノの鍵盤に触れる仕草にも似ていた。
(……琴音さんの音)
遥は、ふと耳を澄ませる。
カフェの奥にあるピアノ——
そこからは、何の音も聞こえない。
でも、不思議だった。
今、確かに「音」が聴こえた気がする。
お湯がコーヒーに落ちる柔らかな音。
トレイを置く微かな響き。
カウンター越しに、自分を見つめる琴音の静かな眼差し。
それらが、まるで旋律のように感じられる。
—— 琴音が奏でる、無言の音楽。
---
「お待たせしました」
琴音が、静かにコーヒーカップを差し出した。
「今日は、少し甘めにしてみました」
遥は、思わず目を瞬かせる。
「……甘め?」
「ええ。たまには、こういうのもいいかなと」
遥は、カップを手に取り、一口飲む。
苦味の奥に、ほんの少しの甘さ。
舌の上に、ふわりと広がる柔らかな余韻。
それはまるで——
(……琴音さんみたいだ)
苦さの中に、ささやかに滲む甘さ。
ほんの少しだけ、相手に寄り添うような優しさ。
遥は、小さく微笑んだ。
「……すごく、いいですね」
琴音の目が、少しだけ丸くなる。
そして、彼女もまた、そっと微笑んだ。
「そうですか。なら、よかったです」
その笑顔を見た瞬間——遥は、ふと気づいた。
琴音は、遥のために「少し甘いコーヒー」を淹れた。
そして、琴音の音もまた——
(……僕に向けて、鳴っていたのかもしれない)
海歌の言葉が、遥の胸に蘇る。
『お前がいるから、あの音が出るんだよ』
遥は、カップをゆっくりと傾けた。
少し甘いコーヒーの味が、口の中に広がっていく。
まるで、それが琴音の想いをじんわりと伝えてくるように。
そして遥は、気づいてしまう。
(もし……あの音が僕のためだったとしたら?)
その答えが、じわりと胸の奥で形を成し始めていた。




