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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
ピアノの音が届く先
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琴音の、決意

カフェ ミルテの夜は、ゆっくりと静けさに包まれようとしていた。


営業終了の少し前、店内にはまだ数人の常連客が残っていた。


コーヒーの香りが静かに漂い、カウンターに置かれたカップから湯気が立ちのぼる。


琴音は、ゆっくりとドリップポットを傾けながら、ふと視線を上げる。


遥が、テーブルの片付けをしていた。


無駄のない動きで椅子を直し、テーブルを拭く手つきは丁寧で、どこか落ち着いている。


(……また、演奏したい)


不意に、心の奥からそう思った。


でも、それはただの演奏ではなく——


遥のための演奏。


彼に音を届けることが、こんなにも特別なことだと、あの夜に気づいてしまった。



---



遥の言葉が、胸の奥でふわりと蘇る。


「綺麗な音でした」


それだけの言葉。


それだけのはずなのに、何度も思い返してしまう。


遥の声音、表情、目の奥に滲んでいたもの——


彼は、どんな気持ちでそれを言ったのだろう。


(こんなに、嬉しいものなんだ……)


自分の音が、誰かに届くということが。


ただ弾くだけじゃない。


誰かに向けて弾くことが、こんなにも大切なものになるなんて。


それを教えてくれたのは——


(……遥さん)



---



「琴音ちゃん、最近なんか変わったわねぇ」


前田さんの声が、カフェの静けさを和らげるように響いた。


「え?」


琴音は驚き、手を止める。


「なんというか……ちょっと前より、表情が柔らかくなった気がするのよねぇ」


琴音は、カウンターに並んだカップをそっと拭きながら、ふと考える。


(私、変わった……?)


そんな自覚はなかった。


でも——


「それに、ピアノを弾いた時の顔、良かったわよ?」


「っ……」


思わず、指が硬直する。


(演奏の時の……私の顔?)


「やっぱり、誰かのために弾く音は違うのよねぇ」


その言葉が、琴音の胸に深く刺さる。


「おや、もしかして図星?」


前田さんが、ニヤリと笑いながらカップを持ち上げる。


琴音は、何か言おうとしたが——言葉が出てこなかった。


(誰かのため……)


否定する理由が、もうなかった。


遥さんのために、私は——


「まぁ、いいわ。私はまた聴きたいわねぇ、琴音ちゃんのピアノ」


前田さんは、軽やかに言いながら、楽しそうにプリンを口に運ぶ。


「また……弾くかもしれません」


琴音は、小さな声で呟いた。


(でも、次は……)


誰かのためじゃなくて。


私自身のために。


そして——


遥に、ちゃんと届ける音を。



---



静かな夜のカフェ。


カウンターの灯りが、ほのかに店内を照らしていた。


外には冷たい風が吹いているのに、店の中は不思議と暖かかった。


遥が片付けを終え、カウンターに戻る。


そんな彼を見つめながら、琴音はそっと息を吸った。


「遥さん」


「はい?」


振り返る遥の視線が、琴音をとらえる。


(……今なら言える)


彼女は、静かに手を重ねるようにして立ち、目を逸らすことなく遥を見つめた。


「……今度、またピアノを弾こうと思っています」


遥は少し驚いたように目を瞬かせた。


「そうなんですね」


琴音はゆっくりと頷く。


けれど、その表情は、これまでの「ただの演奏」とは違う何かを感じさせた。


「でも……今度の演奏は、特別なものにしたいんです」


「……特別な、もの?」


遥は思わず問い返す。


胸の奥に、小さなざわめきが広がっていく。


琴音は、一瞬だけ迷ったような間を置いてから、微かに笑みを浮かべた。


「誰かのためじゃなくて。私自身のために、弾きたいんです」


その言葉が、遥の胸に静かに沁み込んでいく。


(自分のために……?)


彼女はずっと、誰かのために音を奏でてきた。


母のため。


お客さんのため。


そして、カフェのため。


でも、今の琴音は——


ふと、海歌の言葉が頭をよぎる。


「花は、自らの喜びのために花を咲かせる。」


(私は……私のために、音を奏でることができる?)


でも、胸の奥にあるこの感情は——


遥さんのことを想うとき、自然に音を奏でたくなるこの気持ちは——


("自分のために弾く" ということは、"遥さんを想う気持ちのために弾く" ということじゃないだろうか)


遥さんがそばにいてくれるから、私は音を紡ぐことができる。


遥さんの言葉があったから、私は再びピアノに向き合えた。


だったら、私は……


(私は、遥さんのために、音を奏でたい)


でも、それはただの「誰かのために弾く」こととは違う。


遥さんがいてくれることが、私の喜びだから。


それはまるで——


花が、ただそこに咲くことを喜びとするように。


「だから……ちゃんと、聴いていてくださいね」


琴音は、迷うことなく遥の目を見つめる。


遥は、息を飲んだ。


彼女が弾く音は、もう誰かのためのものではない。


でも、それがなぜか、遥の心を強く揺さぶる。


「……はい」


短い返事をしながら、琴音の真剣な瞳を見つめ返す。


その視線の中に、遥は確かなものを感じていた。


(この音は、どこへ向かうんだろう)


その答えを知るのが、怖くもあり——


楽しみでもあった。

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