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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
ピアノの音が届く先
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心の揺れ、距離を感じる夜

カフェ ミルテの扉が開く。


冬の冷たい風が、一瞬だけ店内に入り込み、微かな潮の香りを運んできた。


「お、琴音じゃん。今日も元気にやってるな」


赤いポニーテールが軽やかに揺れる。


堂々とカウンターに歩み寄る汐留海歌の姿に、琴音は少し驚きながらも、静かに微笑んだ。


「海歌さん……こんにちは」


「おう、久しぶり! ま、たまにしか来ないけどな」


カフェ ミルテの常連とは言えないが、時折ふらりと現れる海歌。


遥の大家でもある彼女は、自由で、直感的で、そしてどこまでも真っ直ぐだった。


「うちの借り主、最近ちゃんと働いてる?」


「……遥さんですか?」


「そう、アイツ。ちゃんと動いてるか?」


琴音は思わずカウンター越しに厨房の奥を見る。


ちょうど、遥がコーヒーマシンの調整をしているところだった。


「はい……真面目にやっていますよ」


「だろうなぁ。アイツ、なんか最近変わった気がするんだよな」


琴音の指が、カップの縁でぴたりと止まる。


「変わった……ですか?」


海歌はラテの泡をスプーンでつつきながら、何気なく続ける。


「そう。前よりちょっと柔らかい雰囲気っていうか。ま、悪い意味じゃないけどさ」


遥が……変わった?


琴音は、ふと彼の横顔を思い浮かべる。


確かに、最近の遥は、どこか穏やかで——いや、違う。


(……私といるときの顔、だ)


気づけば、自然と遥のことを考えていた。


そんな琴音の沈黙をよそに、海歌は続ける。


「でもな、琴音、お前も変わったよ」


琴音の指が、カウンターの上で小さく動く。


「……私が?」


「うん、前よりずっと表情が柔らかくなった」


琴音は、言葉に詰まる。


「前はさ、もっとこう……近寄りがたいっていうか、ちょっと冷たい感じだったんだよな」


「冷たい……?」


「いや、違うな。『一人でいたがる感じ』?」


海歌は首を傾げながら言葉を探す。


琴音は、自分が「冷たい」と言われたことよりも、"一人でいたがる"と言われたことに驚いていた。


(私は……そう見えていたんだ)


海歌は、そんな琴音の反応を見ながら、くっと笑う。


「でも、今は違う。お前、なんか変わったよ」


「……そうですか」


琴音は、自分の声がどこか不安定に揺れるのを感じた。


「なんだ、その反応。図星か?」


琴音は慌てて首を振る。


「いえ、そんなことは……」


「ま、いいけどさ。人は、大事なやつができると、自然と変わるもんなんだよ」


大事なやつ——


その言葉が、胸に引っかかる。


何も答えられず、琴音はただカップを拭く手を動かす。


(……私の変化は、遥さんのせい?)


そんな考えがよぎる。


でも、答えを出すのが怖くて、思考を追い払った。


海歌は軽く肩をすくめ、ラテを飲みながら店の空気を楽しんでいる。


琴音は、自分が「変わった」と言われたことを頭の中で反芻する。


(私は……変わった?)


その変化の理由を考えたとき、ふと、遥の姿が浮かんだ。



---



カフェの時計が、夜の静けさを刻んでいる。


閉店時間が近づいたころ、遥はコーヒーマシンの片付けを終えると、エプロンの紐をほどいた。


「琴音さん、今日はちょっと用事があるので、お先に失礼します」


「……あ、はい」


カウンター越しに交わされる、いつも通りの言葉。


でも、どこか違う。


遥は、カウンターの上に手を置き、琴音に軽く会釈をする。


「お疲れ様でした」


「お疲れ様です」


そのまま扉へ向かい、迷いなく外へ出ていく。


扉が閉まる音が、店内に静かに響いた。


---


カフェの中に、ひとり取り残された。


(……なんだろう、この感じ)


静かになったはずなのに、心の中がざわつく。


閉店後の店内で、一人でいることはいつものことだったはずなのに。


違う。


いつもなら、この時間は、もう少し話をしていた。


閉店後のカフェで、コーヒーを淹れて、何気ない会話を交わしていた。


その時間が、何よりも自然だった。


それが——今日はない。


遥がいないだけで、妙に店内が広く感じる。


時計の針の音が、やけに耳につく。


こんなにも、店の中は静かだっただろうか。


(……最近、あまり話せていない)


どうしてだろう。


彼と話す時間が減ったことが、こんなにも気になるなんて。


何かが足りない。


それが何なのか、言葉にすることはできない。


でも、この胸の奥の感覚は——


(寂しい……?)


少し前の自分なら、こんなことで何かを思うことはなかったはずなのに。


遥がここにいないことが、こんなにも寂しいなんて——

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