残響の間で
朝、カフェ ミルテの扉が開く。
冷たい朝の空気が流れ込み、一日が始まる。
遥は、エプロンの紐を手早く結びながら、カウンターに立った。
カウンターの向こうでは、琴音がいつものようにコーヒーを淹れている。
細く注がれる湯が、ゆっくりと円を描く。
その手の動きは、流れるように美しく——まるで、昨夜、鍵盤をなぞっていた指先と重なった。
(昨日の音……)
まだ、耳の奥に残っている。
あの静かで温かい旋律が、遥の胸の奥深くに触れた。
(あれは、本当に——僕に向けた音だったのか?)
そんな考えが頭をよぎる。
だが、すぐに振り払う。
(考えすぎだ)
カウンターに並べられたコーヒーカップを手に取り、ラテアートを描く。
自然と、琴音の動きを横目で追ってしまう。
その視線に気づいたのか、琴音が一瞬、遥の方をちらりと見た。
触れそうで、触れない視線。
そして——
琴音は、何かを誤魔化すように、すぐに目を逸らす。
(……僕と同じことを考えている?)
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
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「おはよう、琴音ちゃん。昨日は素敵な演奏だったわねぇ」
ふと、カウンター越しに前田さんの明るい声が響く。
「懐かしい気持ちになったわ。ああいう音、ずっと聴いていたかったのよねぇ」
琴音は、一瞬驚いたように目を瞬かせる。
けれど、すぐに静かに微笑んだ。
「ありがとうございます……そんな風に言ってもらえると、嬉しいです」
言葉の端に、控えめな照れが滲んでいる。
その様子を見て、前田さんがふっと唇を緩めた。
「で、遥くんはどう思ったの?」
唐突な問いに、遥の手が止まる。
「え?」
「昨日の演奏よ。ねぇ、良かったわよね?」
前田さんは、にこりと笑って遥を覗き込む。
(良かった。すごく良かった。綺麗な音だった。)
そう言いたいのに、口に出すには、なぜかためらいがあった。
「……とても、素敵でした」
ようやく、それだけを絞り出す。
琴音は、その言葉に小さく瞬きをした。
そして——
遥の方を、静かに見つめる。
ほんの一瞬だった。
けれど、その瞳が何かを探るように揺れたのを、遥ははっきりと感じた。
(……気づかれてる?)
遥は、視線をそらすように、コーヒーマシンの操作に意識を向ける。
カップに落ちるコーヒーの音だけが、二人の間の微妙な沈黙を埋めた。
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「……まぁ、琴音ちゃんのピアノは、昔から素敵だったけどね」
前田さんが、何気なくカップを手にしながら呟く。
「でも、なんていうか、昨日の演奏はちょっと違ったような気がするわ」
琴音は、思わず問い返した。
「……違った?」
「うーん、なんだろうねぇ、気のせいかもしれないけど……」
前田さんは、スプーンで軽くプリンをすくいながら、ふっと目を細める。
「いつもより、誰かに向けた音だったっていうか」
琴音の指先が、微かにこわばる。
遥もまた、その言葉に思わず息を飲んだ。
(誰かに向けた音……)
彼女は、誰に向けて、昨日のピアノを弾いたのか。
遥は知りたいと思った。
でも——
その答えがわかってしまうのが、どこか怖かった。
(もし、それが……)
琴音の横顔をちらりと盗み見る。
彼女は、ほんのわずかに視線を落とし、何かを探すようにカウンターを見つめている。
その沈黙が、遥の胸を締めつけた。
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「まぁ、いいのよね」
前田さんが、ぱちんと指を鳴らし、にっこりと微笑む。
「琴音ちゃんがピアノをまた弾いてくれた、それが一番の喜びよ」
「……そうですね」
遥の声が、ほんの少し遅れて出る。
前田さんは、そのまま軽やかにメニューをめくりながら続けた。
「さて、今日もダージリンティーとプリン、お願いね」
「はい、かしこまりました」
琴音も、ほんのわずかに間を置いて応じた。
その小さな“間”が、遥にはひどく長く感じられた。
遥の視線は、もう彼女の横顔から離せなくなっていた。
(琴音さん……)
昨日、彼女の音は確かに「誰か」に向けられていた。
それが「誰か」を、遥はまだ確かめることができない。
でも——
(もし、それが僕だったら……)
そう思ってしまう自分がいることに、遥は気づいてしまった。
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カフェ ミルテの扉が閉まり、営業終了の看板が外にかけられた。
夜の静けさが店内を包み込み、さっきまで響いていた食器の音も、今はもう聞こえない。
カウンターの奥で、琴音が片付けをしている。
遥もまた、店の端で椅子を整えながら、ふと時計を見た。
(いつもなら、この時間は……)
カウンター越しに、琴音とコーヒーを飲みながら、何気ない会話をしていた。
だが、今日は違う。
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無言のまま、二人はそれぞれの仕事をこなす。
カップを片付ける音、布巾でカウンターを拭く音、時計の針が刻む微かな音。
普段と変わらないはずの音が、妙に際立って聞こえる。
言葉がないのが不自然なのに、何も言えない。
琴音も、それを感じているのか、何度か遥の方をちらりと見ては、小さく息を吐いていた。
まるで、何か言おうとして、それを飲み込むように。
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「……昨日は、ありがとうございました」
不意に、琴音が静かに口を開いた。
遥は、その言葉に一瞬動きを止める。
彼女の声は、いつもよりも控えめで、どこか慎重だった。
「いえ……」
それだけ答えたあと、言葉が続かない。
「素晴らしい演奏でした」と伝えたかった。
でも、それを言葉にしてしまえば、何かが大きく変わってしまう気がした。
琴音もまた、それ以上言葉を続けることなく、カウンターを拭く手を止める。
窓の外では、街灯の光が静かに揺れている。
二人の間には、言葉にならない余韻だけが、残っていた。
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「……どうでしたか?」
不意に、琴音がぽつりと呟いた。
遥は、一瞬動きを止め、彼女を見る。
「昨日の……演奏」
琴音は、視線をカウンターに落としながら、小さな声で付け足した。
まるで、言葉を選びながら慎重に進めるかのように。
遥は、どう答えればいいのか考えながら、ゆっくりと口を開く。
「すごく……綺麗な音でした」
それだけだった。
本当は、もっと伝えたいことがあった。
でも、それ以上の言葉を並べたら、きっと何かが変わってしまう。
だから、言葉を抑えた。
琴音は、その短い答えを聞いて、わずかに息を呑む。
(綺麗な音……)
それは、充分に嬉しい言葉のはずなのに。
(でも、それだけ……?)
ほんの一瞬、迷うような間があって——
「……そうですか」
そう小さく呟くと、静かに微笑んだ。
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遥は、その微笑みに目を奪われた。
それは、安心したような、でもどこか寂しそうな微笑みだった。
琴音の胸の奥に何があるのか——
遥は、それを知りたいと思った。
だけど、まだその答えに触れる勇気はなかった。
琴音もまた、遥が何かを言いたそうにしていることに気づいたはずなのに、あえて聞こうとはしなかった。
二人とも、踏み込むことをためらっていた。
それでも、ほんの少しだけ、心が触れた気がした——。
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しばらくの沈黙のあと、琴音がゆっくりと口を開いた。
「……もうすぐ、年末ですね」
「ああ……そうですね」
「今年も、あっという間でした」
「……そうですね」
ほんの少し間を置いて、琴音が微かに笑う。
「また、“そうですね”ばかり」
遥は、思わず息を詰まらせる。
「……すみません」
「ふふ、いいんです。……でも、少しだけ寂しいですね」
「寂しい?」
琴音は、視線をカウンターに落としたまま、小さく息を吐いた。
「今年は、たくさんのことがありました」
「ええ、そうですね」
「……また言いましたよ」
遥は、苦笑した。
(何か、もっと言葉を探せばいいのに)
でも、言葉が出てこない。
ただ、沈黙を埋めるための会話——。
それでも、二人はそのまま、しばらく静かに並んでいた。
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カフェ ミルテの扉が静かに閉まる。
遥は、店を出て、ゆっくりと歩き始めた。
夜の冷たい空気が頬をかすめる。
(……綺麗な音でした)
自分の言葉を思い返し、苦笑する。
(それだけじゃなかったのに)
遥は、ふと立ち止まり、夜空を見上げる。
「本当は——もっと言いたかった」
あの音に込められていた想い。
あの旋律が、遥だけに向けられていたとしたら——
(それを、僕はちゃんと受け止められたんだろうか)
言葉にするのが、怖かった。
それを言った瞬間、何かが決定的に変わってしまいそうで——。
でも。
(……あの音は、たしかに僕に届いていた)
遥は、小さく息を吐いた。
冷たい風が、静かに髪を揺らす。
そして、そっと——心の奥に沁み込んでいった。
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ふと、足を止める。
振り返れば、カフェの灯りがまだついていた。
窓の奥、カウンターに佇む琴音の姿が見える。
彼女は、ぼんやりとコーヒーカップを手にしていた。
まるで、何かを考えているように。
遥は、その姿をしばらく見つめる。
(何を考えているんだろう)
彼女の指が、カップの縁をゆっくりとなぞる。
その仕草に、遥の胸がわずかにざわつく。
(昨日のことを……思い出してるんだろうか)
遥は、カフェの前に佇んだまま、扉を開けるべきかどうか迷った。
(聞けばいい)
何を考えていたのか、昨日の演奏のこと、何を思いながら弾いていたのか——。
でも、聞いたら最後、もう今の関係には戻れない気がした。
遥は、静かに息を吐く。
そして、再び歩き出す。
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琴音の視線がふと動く。
遥の方を見た——わけではなかったが、どこか遠くを見つめるような表情だった。
まるで、何かを探しているように。
遥は、再び歩き出す。
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琴音は、カウンターの椅子に静かに腰を下ろしていた。
カップの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐く。
遥の「綺麗な音でした」という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
(届いたのかな……)
ほんの少し、心が温かくなる。
でも、同時に——何かが足りない。
(……何を期待してるんだろう、私は)
ただ「綺麗な音」と言ってもらえただけで、本当は十分だったはずなのに。
なのに、遥の言葉の向こうに、もっと違う何かを求めてしまう。
「……馬鹿みたい」
小さく呟いて、そっとカップを口元へ運ぶ。
けれど、コーヒーの香りすら、今は味気なく感じた。
(遥さんは……どう思っていたんだろう)
昨日の音が、彼にどう届いたのか。
彼は、何を感じたのか。
それを、聞くのが怖かった。
もし、私の願いがただの思い違いだったら——
もし、遥さんが何も気にしていなかったとしたら——。
琴音は、そっと目を閉じた。
胸の奥に、昨日の旋律がまだ微かに響いている。
でも、それが「届いた音」だったのか、それとも「ただの演奏」だったのか——
答えは、遥の心の中にしかない。
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窓の外をぼんやりと見つめる。
遥の背中が、ゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
足を止めることもなく、振り返ることもなく——。
街灯に照らされた影が、淡く揺れながら、少しずつ遠のいていく。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛くなる。
(……行っちゃった)
当たり前のように、いつも一緒に過ごしていた。
閉店後、何気なく交わす言葉が、ただ心地よかった。
でも、今日は違う。
何かを伝えたかったはずなのに、何も言えなかった。
(……どうして)
言葉にすることも、想いを確かめることもできず、ただ静かに時間が過ぎていく。
カウンターに置いたカップの中のコーヒーは、もうすっかり冷えていた。
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