音に映る心、伝えたい
本日より毎日7時・12時の2回連載となります。
馴染んだ景色のはずなのに、今夜は少し違う。
特別な夜——。
店内には、常連客や近隣の人々が静かに座り、期待の面持ちでピアノの前の琴音を見つめている。
カップを手にしながらも、誰もがふと会話を止め、視線をピアノへと向けていた。
カウンターには、告知のために置かれた小さな黒板。
そこには、丁寧な字で 「本日 ピアノ演奏会」 と記されていた。
「今日は、楽しみにしてたのよ」
前田さんが、小さく微笑みながら言う。
菊池さんも、無言で腕を組んだまま、じっとピアノの方を見つめている。
遥は、カウンターの片隅で、息を潜めるように彼女を見ていた。
(琴音さん……)
遥からの贈り物、青い薔薇のエンボスが入った表紙の譜面。
その横に、琴音は静かに「ミルテの栞」を置く。
深く息を吸い、静かに鍵盤へと指を置く。
そして——
《ベートーヴェン / ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章》
静寂の中、一音目が、まるで夜の帳をそっとほどくように響く。
それは、カフェ ミルテの夜に、そっと静かに溶けていった。
---
琴音の指が鍵盤を滑るたび、カフェの空気が音に溶けていくようだった。
遥は、その旋律に包まれながら、琴音の横顔をじっと見つめていた。
彼女は、何を思いながら弾いているのだろう。
(琴音さんの音は、どこに向かっているんだろう)
遥は、静かに目を閉じる。
彼女の音を、もっと深く感じたかった。
---
(……遥さん)
指先が、鍵盤の上を滑る。
ひとつ、ひとつ、音が響くたび、過去の記憶が静かに呼び起こされる。
遥さんと初めて会った日。
カフェの扉が開き、彼が入ってきたとき——
(あ……)
何故か、その姿に目が止まった。
迷いを抱えているような足取り。
けれど、どこか穏やかで、優しい目をしていた。
カウンターに座ると、彼は静かにメニューを見つめ、それから、少しだけ戸惑いながら注文をした。
そして、コーヒーを口にして——
「この店のコーヒー、美味しいですね」
不器用な微笑みと共に、そう言ってくれた。
その言葉が、胸の奥でゆっくりと染み込んでいく。
「美味しい」と言ってくれたことが、ただ嬉しかったわけじゃない。
(この人は、ここで何かを探している……そんな気がした)
その時は、深く考えなかった。
でも、ふとした瞬間に思い出してしまうくらい、その言葉は私の心に残った。
初めてのアルバイトの日。
「じゃあ、ここにカップを並べて……」
遥さんは、不慣れな手つきでカップを並べ、ゆっくりとコーヒーを淹れていた。
(少しぎこちないけれど……)
真剣な眼差し。
蒸気の向こうで、静かにミルクピッチャーを持ち上げ、慎重にラテアートを描こうとする。
——けれど、途中で形が崩れた。
「……難しいですね」
申し訳なさそうに眉を下げる彼。
「練習すれば、きっとできますよ」
思わず、そう声をかけていた。
遥さんは、私の言葉に少し驚いたように目を瞬かせて——
「……そうですね」
また、あの不器用な微笑みを浮かべた。
その横顔を見て、胸がすっと温かくなる。
それは「頑張ってほしい」という気持ちだけではなかった。
(この人となら……)
(この店を一緒に守っていけるかもしれない)
そんな想いが、心の奥にふわりと灯った。
それが何なのか、はっきりとはわからなかったけれど——
その感覚は、ずっと消えずに私の中に残り続けていた。
譜面を渡してくれたとき。
「琴音さんが本当に弾きたかった曲なんじゃないかと思って」
遥さんの声が、やけに優しかった。
そう言って、遥さんはそっと一冊の譜面を差し出した。
青い薔薇のエンボスが入った、厚みのある表紙。
角には、小さなミルテの花の栞が挟まれていた。
(……ミルテの花)
それは、「希望・幸福・愛」の象徴。
指先が、震える。
遥さんが、私のために選んでくれたもの。
ただの楽譜じゃない。
私の過去に触れながらも、決して踏み込みすぎず、ただそっと寄り添ってくれる人。
「ありがとう」
それだけしか言えなかった。
本当は、「どうして、私のことをこんなにもわかってくれるんですか?」と聞きたかった。
でも、怖かった。
その答えを知ってしまったら、私は遥さんに惹かれてしまうかもしれないから。
でも、もう気づいていたのかもしれない。
この楽譜は、ただの楽譜ではない。
遥さんが、私のために探してくれたもの。
遥さんが、私のために時間を使ってくれたもの。
遥さんが、私のために——
(私のために?)
ミルテの花の栞を、そっと指先でなぞる。
遥さんの優しさが、そこに宿っている気がした。
背中を押してくれたとき。
「琴音さんの音は、もう届いていますよ」
遥さんの言葉は、静かで、けれど確かな響きを持っていた。
その瞬間、心の奥で何かがふっとほどけた気がした。
(私の音が——届いている?)
ずっと、「誰かのために弾く」ことが怖かった。
ピアノに触れるたび、私の音はどこか空虚で、ひとりきりだった。
ひとりで弾く音は、どこまでも孤独だった。
まるで、誰にも届かない悲鳴のように——。
でも、遥さんがそばにいてくれた。
彼が「届いている」と言ってくれたことで、初めて私は、自分の音に居場所を見つけられた。
(私の音に、意味がある?)
それを教えてくれたのは、遥さん。
彼の言葉が、私の音をここに留めてくれた。
彼の存在があるだけで、音が変わる。
心が震えた。
(遥さんがいるから、私は奏でられる)
——遥さんのために、私はこの音を届けたい。
---
この気持ちは、なんだろう?
遥さんがそばにいるだけで、こんなにも心が穏やかになる。
遥さんの言葉一つで、私は勇気をもらえる。
遥さんがいるから、私は音を奏でたくなる。
指が鍵盤の上を滑るたび、胸の奥に広がるぬくもり。
それは、音と共に溶けていくようで——
(これは……愛?)
単なる「感謝」や「尊敬」ではない。
「恋」とも違う、もっと穏やかで、もっと深くて、ただそこにあるだけで心を満たしてくれるもの。
静かに響く旋律が、遥さんへと流れていく。
遥さんがいたから、私は音を紡げるようになった。
遥さんがいたから——
私は、今、ここでピアノを弾いている。
この気持ちに名前をつけるなら、それはきっと——
(深愛、真心、穢れなく美しいもの)
指が震える。
それでも、音は流れる。
遥さんに、届けたい。
---
最後の音が、静かに響き、消えた。
誰もが、その余韻を噛みしめるように、店内は静寂に包まれた。
琴音は、鍵盤の上で指を止め、そっと目を閉じる。
胸の奥に溢れそうな何かを感じながら。
(……まだ足りない)
言葉にはできない。
でも、確かにここにある、この想いを。
伝えたい。
言葉ではなく——音で。
そっと、指が鍵盤に触れた。
即興の旋律が、生まれる。
それは、今この瞬間、遥のためだけに生まれた音。
遥に届いてほしい。遥だけに、聴いてほしい。
そんな想いが、音になって紡がれる。
遥は、息をのんだ。
(これは……)
「今」の琴音の音だった。
ためらいもなく、まっすぐに心からあふれる旋律。
迷いながら進んできた彼女の音は、今、確かにここにある。
遥に向けられた、特別な音。
彼女の心が、旋律となり、夜のカフェに溶けていく。
その音は、どこまでも柔らかく、けれど確かな想いを持っていた。
まるで——
「あなたがいたから、私は弾ける」と告げるように。
遥の指が、知らず知らずのうちに、カウンターをぎゅっと握っていた。
これから一つの山場のシーンでした。これからは心の葛藤の描写が多いと思いますが気づくと面白い仕掛けも仕込んでおりますのでコーヒの香りと共にゆっくりお楽しみください。
『エスプレッソより、少し甘く』の、トップページの上に『湘南ノート』という項目が追加されたと思います。
そこをクリックしていただくと『波の向こうにいた人
』という作品が出てきます。海歌の過去を語った物語となりますのでお時間あればぜひご覧ください。
3月18日22時から定期更新となります。今はまだプロローグしか発表しておりませんが、自信作ですので、是非ご覧になってください。
読みやすく、かすかな余韻を残す考えさせられる作品になったと思います。
3月18日22時から定期更新です。ぜひご覧ください。




