奏でる理由、伝えたい想い
ピアノの鍵盤にそっと指を置く。
遥さんが「カフェで演奏イベントをしませんか?」と言ったとき、私は驚いた。
遥さんが、私の音を広げたいと思ってくれている。
それが、嬉しくないわけじゃなかった。
でも、それと同時に、私は少しだけ怖かった。
(……私は、本当に、この音を誰かに届けられるの?)
今までは、ただカフェの一部として弾いてきた。
でも、今度は違う。
意識的に「誰かに届けるために弾く」ということになる。
それは——
(もし、誰にも届かなかったら?)
(もし、この音がただのBGMとして流れてしまったら?)
考えれば考えるほど、不安が胸の奥でふくらんでいく。
(私の音は、誰のためのものなんだろう)
---
「琴音ちゃん、どうしたの?」
前田さんの声に、私はハッとした。
「えっ……」
「いやね、さっきから何度もカウンター拭いてるから」
気づけば、同じ場所を何度も磨いていたらしい。
「……少し、考え事をしていました」
「ふぅん?」
前田さんは、カップを持ち上げて、にやりと微笑む。
「ピアノのイベントのこと?」
私は、ふと手を止めた。
「……どうして」
「そりゃ、琴音ちゃんのこと、見てればわかるわよ」
前田さんは、紅茶をひと口飲んで、ゆっくり続けた。
「ねえ、琴音ちゃん」
少し声のトーンが落ちる。
「本当はさ、誰かに聴いてほしいって思ってるんじゃない?」
「……え?」
「だから迷ってるんでしょ?」
私は、息をのんだ。
(誰かに……聴いてほしい?)
---
夜、店を閉めた後。
私は、ピアノの前に座った。
鍵盤を見つめる。
遥さんは、私の音を「届いている」と言ってくれた。
秋人さんは、「母は琴音に音を届けたかった」と言った。
(私は……)
目を閉じると、思い浮かぶのは、遥さんのことだった。
ピアノを弾くと、遥さんはいつもそっと耳を傾けてくれる。
彼の静かな微笑み、優しい眼差し。
私は、それを感じながら弾くのが好きだった。
(私は、遥さんに聴いてほしい)
自分の心がそう囁く。
それはもう、迷いのない気持ちだった。
(私は、遥さんのために弾きたい)
そう思った瞬間——
胸の奥が、静かに熱を帯びた。
まるで、ずっと探していた答えを見つけたような感覚。
(……これが)
恋?
でも、それだけじゃない。
胸に広がるこの温かさは、
ただ「好き」という言葉だけでは言い表せない気がする。
(遥さんに、聴いてもらえることが嬉しい)
(遥さんが、私の音を必要としてくれることが嬉しい)
(遥さんがそばにいるから、私はこの音を奏でたい)
それは、母が私に音を届けたように——
私は、遥さんにこの音を届けたかった。
それが 「恋」なのか、それとももっと別のものなのか——今はまだ、わからない。
でも、ただひとつだけ。
(私は、遥さんのそばで、ピアノを弾きたい)
その気持ちだけは、はっきりと確信できた。
---
カフェ ミルテの空気が、いつもより少しだけ高揚感を帯びている。
ピアノイベントに向けて、準備が進んでいた。
告知を兼ねたメニューの片隅に、小さく手書きで「ピアノ演奏の日」と書かれた紙が貼られる。
常連たちが、それを見て「楽しみねぇ」と微笑む。
遥は、店のレイアウトを微調整しながら、時折ピアノの方を見やった。
琴音は、カウンターでコーヒーを淹れながらも、どこか落ち着かない様子だった。
(私は、遥さんのために弾く)
そう決めた。
でも、実際にイベントが近づくにつれて、胸の奥がざわついてくる。
「誰かに聴いてほしい」と願ったことはある。
でも「この人に聴いてほしい」と、こんなにも強く思ったのは、遥さんが初めてだった。
それが、心を不安定にさせる。
私は、本当に、この音を遥さんに届けられるのだろうか。
---
準備の合間、遥はふと琴音の様子を見つめた。
彼女は、コーヒーを淹れながら、どこか考え込むように視線を落としていた。
(琴音さん……緊張してるのかな)
彼女の音が変わったことに気づいたあの日から、遥の中でも何かが変わり始めていた。
「もっと琴音さんの音を広げたい」と思ったのは、本当にそれだけだったのだろうか。
彼女が奏でる音が、自分の中に染み込んでいくような感覚。
その音を、誰よりも近くで聴いていたいと思う気持ち。
(……僕は、琴音さんの音が好きなんだ)
ふと、自分の心がそう呟いた。
それは、単にピアノの旋律が美しいからではない。
それを奏でる人が、琴音だから。
(琴音さんの音が、僕に届いてほしい)
そんなことを思ってしまう自分に、遥は小さく息を吐いた。
---
カフェ ミルテの夜。
閉店後、琴音は店の奥のピアノの前に座っていた。
遥は、掃除を終えた後、カウンター越しにその様子を見守っていた。
彼女は、ゆっくりと鍵盤に手を置く。
ためらうように、いくつかの音を鳴らした。
遥は、その音を静かに聴いていた。
「琴音さん」
彼女は、顔を上げる。
「今日も、いい音ですね」
琴音は、少し驚いたように瞬きをした。
「……そう、でしょうか」
遥は、カウンターから歩み寄り、ピアノのそばで立ち止まる。
「ええ。優しくて、心に響く音です」
琴音は、一瞬視線を彷徨わせたあと、小さく息を吐いた。
「……私、ちゃんと弾けるでしょうか」
遥は、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
「……どうして、そんなふうに言い切れるんですか?」
遥は、そっと答える。
「だって、もう届いていますから」
琴音の胸が、静かに揺れる。
遥の言葉が、心の奥にすっと入り込んでいく。
(……届いてる?)
ふと、遥の顔を見た。
彼の表情は、いつものように穏やかで優しくて。
でも——
(遥さんは、どうしてこんなふうに私の音を聴いてくれるんだろう)
ほんの一瞬、遥の目の奥を探るように見つめてしまった。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう呟いて、琴音はもう一度、鍵盤に指を置いた。
けれど、その音が響く前に——
心の奥が、そっと熱を帯びるのを感じた。
連載回数変更のお知らせ & 物語完結に寄せて
いつも『エスプレッソより、少しだけ甘く』を読んでくださり、本当にありがとうございます。
物語の完結が近づくなかで、連載のペースについて少しお知らせがあります。
これまで1日4回更新していましたが、3月9日以降は【朝7時・夜22時】の1日2回更新に変更いたします。
物語のクライマックスに向けて、より丁寧に言葉を紡ぎたいという思いから、この形を取ることにしました。
最後まで、一杯のコーヒーを味わうように、ゆっくりと読んでいただけたら嬉しいです。
そして——
『エスプレッソより、少しだけ甘く』は、3月18日をもって完結となります。
この物語を紡ぎ始めた日から、まるでカフェの扉を開くような気持ちで、ひとつひとつのシーンを描いてきました。
湘南の小さなカフェ・ミルテで交わされる、遥と琴音の静かな時間。
迷いながらも前に進む彼らの姿を見つめるうちに、いつの間にか、この物語は私にとってもかけがえのないものになっていました。
遥がこの場所にたどり着き、琴音と出会い、そして共に時間を重ねるなかで生まれたもの——
それが「愛」という言葉で表せるのか、それとも別の何かだったのか。
答えはきっと、読んでくださった皆さんの心の中にあるのだと思います。
読者の皆さんが、この物語のひとときをともに過ごしてくださったことに、心から感謝します。
3月18日まで、どうぞ最後までお付き合いください。
カフェ・ミルテの扉は、もうしばらく開いています。
今日もまた、静かにコーヒーを淹れて、お待ちしています。




