音の向こうにいる人
夜のカフェ ミルテ。
店の灯りが、静かにピアノの表面を照らしている。
琴音は、鍵盤の上にそっと指を置きながら、ふと窓の外に目をやった。
夜風が、木々を揺らし、小さな花々をそっと撫でている。
(……花は、自らの喜びのために花を咲かせる)
海歌の言葉が、胸の中にふわりと浮かぶ。
彼女がそう言ったときは、軽い冗談のように聞こえたけれど——
(ピアノも、そうなんだろうか)
誰かのために弾くことは、大切。
でも、それと同じくらい、自分自身のために弾くことも大事なのかもしれない。
けれど——
(それを、私は許せるだろうか)
鍵盤にそっと触れる。
けれど、まだ音は鳴らさない。
心のどこかに、まだ迷いがある。
今までずっと、「誰かのために弾くこと」を意識してきた。
もし、自分のために弾くとしたら——
私は、どんな音を奏でるんだろう。
---
「琴音さん?」
静かな声に、琴音はゆっくりと振り向いた。
「……遥さん」
遥は、カウンター越しに琴音を見つめていた。
「何か考え事ですか?」
琴音は、指先で鍵盤を撫でながら、小さく頷く。
「……遥さんは、どうしてコーヒーを淹れるんですか?」
遥は、一瞬驚いたような表情を浮かべた。
「どうして、ですか?」
「お客さんのため?」
「それもありますね。でも……」
遥は、そっと息を吐く。
「……僕、自分のためでもあるんですよ」
琴音は、その言葉に目を瞬かせる。
「自分の、ため?」
遥は、少しだけ微笑んだ。
「誰かのために淹れるコーヒーだからこそ、僕は真剣になれるんです。でも、それだけじゃなくて……」
カウンターに置かれたカップを、そっと撫でる。
「コーヒーを淹れる時間が、僕にとっては大事なんです。
それが好きだから、続けてるんだと思います」
琴音は、その言葉を聞いて、目を伏せた。
(そう……私が、ピアノを弾く理由も)
誰かのために弾くこと。
それは、大切なこと。
でも、それだけじゃなくて——
(私は、私のために弾いてもいいんだろうか)
遥の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
ピアノを弾くことが、ただ「誰かのためのもの」ではなくなるとしたら——
それは、どんな音になるのだろう。
琴音は、そっと鍵盤に指をのせた。
そして、今度は迷わずに——静かに、音を響かせた。
---
ピアノに向き合いながら、琴音は、もう一つの気持ちに気づき始めていた。
(私は……誰に、この音を届けたいんだろう)
母の言葉が蘇る。
「音は、誰かを想う気持ちで変わる」
秋人が伝えた、母の言葉。
そして、遥の言葉。
「誰かに届けたいと思うなら、それが答えなんじゃないでしょうか」
——届けたい。
音を、誰かに。
そう思ったとき——
(遥さんに、聴いてほしい)
胸の奥が、そっと温かくなるのを感じた。
今までも、ずっと彼はそばにいた。
私のピアノを、静かに、でも確かに聴いてくれていた。
彼の言葉に、背中を押されたこともあった。
彼の存在が、どこか心を落ち着かせてくれることも。
(……遥さんがいるから、私はまたピアノを弾こうと思えたのかもしれない)
彼が、私の音を「届いている」と言ってくれた。
彼が、この場所にいて、私の音を聴いてくれている。
(私は、遥さんに、この音を届けたい)
その気持ちに気づいたとき、琴音は、そっと鍵盤に指を置いた。
そして——
静かに、一音目を鳴らした。
空気が、ふっと変わる。
カフェの静けさに溶けるように、優しく響く旋律。
遥は、その音に気づき、カウンターに肘をつきながら、そっと微笑む。
「……琴音さんの音、やっぱりいいな」
言葉にしようとして、でも、それ以上の言葉が見つからなかった。
ただ、届いているとわかる。
(……届いてますよ、琴音さん)
遥の瞳が、静かに揺れる。
琴音の音が、そっと、彼の心に沁み込んでいく。
---
カフェ ミルテの夜。
遥は、カウンター越しにピアノの音を聴きながら、静かにコーヒーを淹れていた。
(音が……変わった)
最初の一音が響いた瞬間、ふと手を止める。
以前の琴音の音は、まるで自分の心を探るような、慎重で繊細なものだった。
ひとつひとつの音を確かめるように、迷いながら紡がれる旋律。
でも今——
(……違う)
今の音は、まるで誰かに語りかけるような響きだった。
そっと背中を押すような、優しさと確信を帯びた音。
それでいて、どこかあたたかい。
遥は、カップを手に取るのも忘れ、じっと耳を傾けた。
(これは……誰かのために弾いている音だ)
その「誰か」が誰なのかを考えたとき、胸の奥がじんわりと熱を持った。
(……この音を、もっと聴いていたい)
遥は、ふっと微笑んだ。
静かに、けれど確かに、店の空気が変わっていく。
カウンターに座る客たちが、気づかぬうちに会話の声を落とす。
コーヒーの香りが満ちた店内に、琴音の旋律が溶けていく。
まるで、それがこのカフェにとって「いつもの音」になっていくように——。
---
(私は、誰にこの音を届けたいんだろう)
母が言っていた、「音は誰かを想う気持ちで変わる」という言葉が、胸の中に響いている。
そして、海歌の言葉——
「花は、自らの喜びのために花を咲かせる」
私は、誰のために弾いているのか。
自分のため? それとも——
(……遥さんのため)
その考えに至った瞬間、胸が小さく跳ねた。
(……違う、そんなはずない)
戸惑いながらも、その感覚を否定しきれない。
遥の前で弾くことが、どこか心地よく、嬉しくて。
彼が「届いてる」と言ってくれるたびに、私は安心して、もっと音を紡ぎたくなる。
(私の音は、遥さんに届いてほしい)
そう思ったとき、胸の奥がそっと温かくなった。
それは、誰かに褒められたいとか、認められたいとか、そんな単純なものじゃない。
(遥さんがいるから、私は音を奏でたい)
それが、今の私にとっての「自分のため」なのかもしれない。
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翌朝。
琴音が仕込みをしていると、遥がふと声をかけた。
「琴音さん、最近、音が変わりましたね」
琴音は、驚いたように振り向く。
「……わかりますか?」
遥は微笑む。
「ええ。前より、優しくて、温かい音になった気がします」
琴音は、一瞬だけ息をのんだ。
(気づかれてる……)
「どうして、変わったんでしょうね」
遥は、穏やかな目で琴音を見つめる。
琴音は、視線を落としたまま、小さく息をついた。
「……誰かに届けたいと思ったから、でしょうか」
遥は、その言葉を聞いて、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「……そう、なんですね」
琴音は、それ以上何も言わなかった。
でも、遥には伝わった気がした。
(琴音さんが届けたい音……それは)
僕のため……だったら、いいな。
けれど、確かめるのが怖いような気もする。
ただの勘違いだったらどうしよう。
それでも——
(そうであってほしい、と思ってしまう)
遥は、そっとカップを磨きながら、心の中で微笑んだ。




