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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
静かな鍵盤、遠い記憶
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届く音、届く勇気

カフェ ミルテの昼下がり。


客足が途切れず、店内には温かいざわめきが満ちていた。


遥はカウンターの向こうで、客の注文に手際よく応じながら、ふと琴音の姿を探す。


彼女は、店の奥に置かれたピアノの前で静かに指を組み、少し遠くを見つめていた。


(迷っている……)


遥には、琴音の気持ちがなんとなくわかる気がした。


彼女はすでに、この店でピアノを弾いている。


朝の開店前や、夜の閉店後。


あるいは、常連客が集う落ち着いた時間に。


でも、今は違う。


今この店には、たくさんの客がいて、それぞれの時間を過ごしている。


そんな「日常」の中で、彼女はピアノを弾くことを、まだ躊躇っているのかもしれない。



---



「琴音さん」


遥が近づいたのを感じ、琴音はゆっくり顔を上げる。


彼は、いつもの穏やかな瞳で、こちらを見つめていた。


「弾かないんですか?」


琴音は、一瞬だけ目を伏せる。


「……迷っています」


「何をですか?」


「こんな時間に、ピアノを弾いてもいいのか」


遥は、少し笑った。


「前にも言いましたよね。もう、届いてるじゃないですか」


「……でも」


「どうして迷うんですか?」


琴音は、ピアノに視線を戻す。


「……私は、今までは、お店の空気が静かになったときだけ弾いていました」


「ええ、そうですね」


「でも、今は……みんな、それぞれの時間を過ごしていて……。そこに私の音を混ぜていいのか、わからなくて」


遥は、琴音の横に腰を下ろし、カウンターをちらりと見やった。


「僕は、こう思います」


琴音が、ゆっくりと遥を見た。


「コーヒーの香りがこの店を満たすように、琴音さんの音も、この店の一部になっていいんじゃないですか?」


琴音は、じっと遥の言葉を噛み締めた。


「……私の音が、この店の一部に?」


「ええ。ピアノがあることも、琴音さんが弾いていることも、このカフェの大切な風景なんです」


遥は、優しく続ける。


「だから、いつも通り、弾いてみてください」


琴音は、深く息を吸った。


(……いつも通り)


遥の言葉が胸の奥にすとんと落ちる。


まるで、張りつめていた何かがほどけるような感覚。


(私は……この店の一部になれている?)


ピアノに触れる指先が、少しだけ軽くなった気がした。



---



店内のざわめきの中、琴音はそっと鍵盤に手を置いた。


指先が、自然に動く。


最初の一音を弾いたとき、店のざわめきに飲み込まれるような気がした。


けれど、弾き続けているうちに——音が空間に溶けていくのを感じる。


まるで、元々そこにあったかのように。


(……本当に、これでいいんだろうか)


でも、不思議と、違和感は少しずつ薄れていった。



遥は、黙ってその瞬間を見守っていた。


ふと、客たちの会話が、少しずつ静まっていくのを感じる。


遥は、カウンターの向こうから静かに琴音を見ていた。


彼女が鍵盤に触れる瞬間、息をひそめる。


(……弾くんですね)


彼女の音が広がると同時に、店の空気が変わっていく。


それを感じながら、遥はふと考えた。


(この音が、もっと多くの人に届けばいいのに)


いつか、琴音さんが心から楽しんで、迷わずピアノを弾ける日が来るだろうか。


そのとき、俺はどこにいるんだろう——。



---


カフェ ミルテの夜。


いつもと変わらない店の風景。


けれど、琴音の中では何かが少しずつ変わり始めていた。


日中、多くの人がいる中でピアノを弾いた。


最初は、違和感があった。


でも、演奏が進むにつれ、その音が店内に馴染んでいくのを感じた。


(……これでいいんだろうか)


自分の音が、この場所の一部になりつつある。


それは、悪い気分ではなかった。


でも、それだけでいいのだろうか。


たしかに、ピアノは自然に馴染んでいた。

でも、どこか物足りなさが残る。


(私は、この音を届けたくて弾いている? それとも、ただ流れに任せているだけ?)


自分の音がここにあることは、嬉しい。


けれど、それだけで満足していいのだろうか——。


(私は、ただこの店に溶け込む音を奏でるために弾いているの?)


もし——もし、誰かのために弾くとしたら。


その「誰か」は、もう決まっているのかもしれない。



---



琴音がピアノの前で考え込んでいる頃、遥はカウンターで静かにコーヒーを淹れていた。


「遥くん、いい顔してるね」


前田さんが、にこにこと笑いながら言った。


「そうですか?」


「ええ。琴音ちゃんがピアノを弾き始めて、嬉しいんじゃない?」


遥は、カップにコーヒーを注ぎながら、小さく微笑んだ。


「……はい。琴音さんの音は、やっぱりこの店に必要なんだと思います」


前田さんは、そんな遥を見つめながら、ふっと笑った。


「ねえ、遥くん」

カップを軽く揺らしながら、前田さんは穏やかに続ける。


「あなたにとって、琴音ちゃんのピアノは “お店に必要なもの” なの?」


「え?」


遥は、一瞬言葉に詰まる。


「それとも、あなたが “聴きたいもの” なの?」


遥は、カップの中のコーヒーを見つめる。


(俺が、聴きたい?)


琴音さんの音は、確かにこの店に馴染んでいる。

お店の雰囲気が変わったことも、客たちの反応が良いことも、事実だ。


でも——


(……それだけか?)


彼女のピアノが、もっと多くの人に届いてほしい。

それは、カフェのため? 琴音さんのため? それとも——


遥は、カップの縁を指でなぞる。


「ふふ、そうねぇ」


前田さんが、まるで何かを察したように微笑む。


「お店の雰囲気が、少し変わったわよ」


遥は、客たちの表情を見た。


リラックスした顔でコーヒーを飲む人、音に耳を傾けながら読書をしている人。


ピアノの音は、確かにカフェの中に溶け込んでいた。


(もっと多くの人に、琴音さんの音を聴いてもらいたい)


そう思うのは、彼女の音が好きだから?


それとも——


彼女自身が、もっと自信を持てるようになってほしいから?


遥は、コーヒーを一口飲みながら、静かに息を吐く。


(……自分は、どちらを望んでいるんだろう)



---



夜、店を閉めた後。


琴音は、ピアノの前に座っていた。


静かな店内。


さっきまで響いていたざわめきが消え、今はただ、時計の秒針が時を刻んでいる。


鍵盤に指を置く。


(私の音は、どこに届いているんだろう)


ふと、背後から足音が聞こえた。


「琴音さん」


遥だった。


「まだ弾いていたんですね」


「……ええ」


琴音は、ゆっくりと遥を見上げた。


「今日の演奏、よかったですよ」


遥の言葉に、琴音は少しだけ微笑んだ。


「ありがとうございます。でも……」


「でも?」


琴音は、鍵盤をなぞるように指を滑らせた。


「私は、誰のために弾いているんでしょう」


遥は、静かに琴音の言葉を待った。


「今までは、店の空気に馴染ませるように弾いていました。でも、それだけでいいのか、わからなくなってきました」


遥は、ゆっくりと頷いた。


「……誰のために弾くのか」


「ええ」


「それは……琴音さんが決めることなんじゃないですか?」


琴音は、少し驚いたように遥を見た。


「決める?」


「ええ。店のために弾くのもいい。自分のために弾くのもいい。でも……誰かに届けたいと思うなら、それが答えなんじゃないでしょうか」


琴音は、視線を落とした。


「……私は、届けたいんでしょうか」


遥は、優しく微笑んだ。


「もう、届いてると思いますよ」


琴音の胸が、小さく揺れた。


(私の音は……)



---



翌日、秋人がカウンターに座り、静かにコーヒーを飲んでいた。


「今日は、何を弾くんです?」


琴音が、驚いたように顔を上げる。


「……まだ、決めていません」


「そうですか」


秋人は、カップを置いて、ゆっくりと琴音を見つめた。


「あなたのお母さんは、よくこう言っていました」


琴音の指先が、ふっと固まる。


「……母が?」


秋人は、一度言葉を切るように、カップの縁をなぞる。

まるで、その言葉の重みを測るかのように。


「“音は、誰かを想う気持ちで変わる”と」


琴音は、息をのんだ。


(……誰かを想う気持ちで?)


拳をぎゅっと握る。


母の音は、どんな気持ちで弾かれていたのだろう。

遥がくれた楽譜、『悲愴』をもし弾いたら、自分の音は変わるのだろうか。


「……本当に、変わるんでしょうか」


ぽつりと零れた言葉に、秋人は少し微笑んだ。


「ええ。だから、きっとあなたの音も、誰かを想えば変わるはずですよ」


琴音は、言葉を失った。


(私の音は……今、誰に向かっている?)


遥の言葉。


「誰かに届けたいと思うなら、それが答えなんじゃないでしょうか」


秋人の言葉。


「音は、誰かを想う気持ちで変わる」


胸の奥が、ゆっくりと波打つ。


自分の音を、誰に届けたいのか。


その答えが、まだはっきりとは見えない。

けれど——


確かに、何かが浮かび上がろうとしていた。


二人の物語を見守っていただき、嬉しく思っています。

次回の更新は本日12時になります。


もっとテンポよく投稿して欲しい!いや、ゆっくり投稿して欲しい。又は、誤字脱字、ここが良かった・悪かった等ご意見ありましたら是非お気軽に感想ください。

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