音に込められた想い
琴音の指が、静かに鍵盤をなぞる。
先ほどまでとは違う感覚があった。
鍵盤に触れる指が、まるで誰かの心にそっと触れているような——そんな感覚。
(私は……誰のために、この音を奏でているんだろう)
今までは、自分のために弾いていた。
それが、いつの間にか——
(……遥さんに、聴いてほしいと思っていたのかもしれない)
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「戻ってきたな、この店の音が」
菊池さんが、ゆっくりとカップを傾ける。
「ええ、本当に」
前田さんが、小さく頷く。
「琴音ちゃん、あなたのピアノは優しいのね」
琴音は、言葉を返さなかった。
ただ、自分の音に耳を澄ませる。
(……私の音が、優しい?)
自分では、そんなふうに思ったことはなかった。
けれど、遥が聴いてくれると思うと、胸の奥に温かいものが広がった。
この音が、彼に届いていると思うだけで、不思議と心が落ち着く——そんな気がした。
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「ねえ、琴音さん」
天音が、カウンターに肘をつきながら微笑む。
「遥くんに弾いてあげるの、楽しかった?」
琴音は、わずかに目を見開く。
「……楽しかった?」
「うん。私にはそう見えたよ」
琴音は、鍵盤をそっと見つめる。
(……私は、楽しかったのかな)
遥さんの顔を思い出す。
演奏を聴いていたときの、あの穏やかな表情。
——私の音を、あんなふうに聴いてくれる人がいることが、なんだか嬉しくて。
たしかに、今までとは違う感覚だった。
いつもより、もっと自由で、もっと心が軽くて——
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秋人は、カップを傾けながら、じっと琴音の指先を見つめていた。
やがて、小さく息をつくように呟く。
「……やっぱり」
ふと、秋人がコーヒーを口にしながら呟いた。
遥が、その言葉に気づいて顔を向ける。
「何か?」
秋人は、琴音の演奏を聴きながら、静かに言った。
「あなたの音には、確かに“想い”がありますね」
琴音が、少し戸惑ったように秋人を見る。
「……想い?」
「ええ。音楽というのは、弾く人の気持ちを映します。だから、同じ曲でも、その人の心が変われば響き方も変わる」
秋人は、琴音のピアノを見つめながら、ゆっくりと続けた。
「今のあなたの音は……そうですね。
まるで、誰かのために奏でる音のようでした。」
琴音は、少しだけ息を呑んだ。
(……誰かのために)
---
演奏を終えたあと、琴音は静かに鍵盤を撫でた。
(私は、遥さんのために弾いた)
(それが、こんなに嬉しいことだなんて)
ピアノを弾くことが、自分の喜びになるなんて、もう忘れていたはずだった。
でも、今の音は違う。
誰かのために弾くことが、こんなにも心を満たしてくれる。
遥が、ゆっくりと口を開く。
「ありがとうございました、琴音さん」
その言葉を聞いた瞬間——
琴音の胸が、ふっと温かくなった。
(遥さんが、私の音を聴いてくれた)
その事実が、心を満たしていた。
演奏の間、ずっと、彼の視線を感じていた。
私の音が、確かに届いていた——それが、こんなに嬉しいなんて。
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ピアノの余韻が、静かにカフェに溶けていく。
遥が微笑みながら、「ありがとうございました」と言った。
たったそれだけの言葉なのに——
琴音の胸の奥が、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
まるで、静かに広がる音の余韻のように。
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演奏を終えたあとも、琴音はふと鍵盤に手を添えていた。
(……遥さんが、私の音を聴いてくれた)
ただそれだけのことなのに、心が満たされる。
自分の演奏を誰かに聴いてほしいと、心から思ったのはいつぶりだろう。
そんな自分に、少し戸惑いながらも——
(次に弾くときも、聴いてほしいな。
…………遥さんが、私の音を聴いてくれるなら、きっと——。
この音は、もっと優しくなれる気がする。)
そんな考えが、自然と浮かんでいた。
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遥は、カウンターの向こうから琴音を見ていた。
いつもより、ほんの少しだけ柔らかい表情をしている。
「琴音さん」
琴音が顔を上げると、遥は穏やかに言った。
「また、聴かせてください」
琴音は、一瞬驚いたように瞬きをする。
(……また?)
「……俺、琴音さんの音が好きです。
だから——また、聴かせてもらえますか?」
不意に、心臓が小さく跳ねた。
思わず目をそらし、そっと鍵盤を撫でる。
「……機会があれば」
それだけを言うのが、精一杯だった。
---
霧島秋人が、カップを置く音が響く。
「いいですね」
遥が、秋人の言葉に気づき、視線を向ける。
「何がですか?」
秋人は、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたの音は、誰かのために奏でられた音だった」
琴音は、その言葉に小さく息を呑んだ。
(……私の音が、誰かのために?)
秋人は、しばらく黙っていたが——
ふと、遥に視線を向ける。
「そういえば、琴音さんのピアノを最初に聴いたのは……何年前だったかな」
遥が目を瞬かせる。
「……秋人さん、琴音さんのピアノを聴いたことがあるんですか?」
秋人は、曖昧な微笑を浮かべた。
秋人は、一度コーヒーを口にし、ゆっくりと目を閉じた。
まるで、遠い記憶の扉が、ふいに開いたかのように。
「いや……ただ、昔、よく似た音を聴いたことがあったんです」
琴音は、わずかに眉を寄せた。
(秋人さん……私のピアノを?)
けれど、秋人はそれ以上は語らなかった。
遥と琴音は、その言葉の意味を考えながら、静かに時間を過ごしていた。
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