音が誰かのために
カフェ ミルテの午後。
琴音のピアノの音が、静かに店内を満たしていた。
「おや、またピアノか」
ふと、音の合間に声が差し込む。
菊池さんが、コーヒーカップを片手に顔を上げる。
「おお、いいねぇ。やっぱり、この店にはこの音がないと」
前田さんが、嬉しそうに微笑む。
「琴音ちゃん、誰かのために弾くのもいいものよ」
琴音は、少し戸惑ったように鍵盤を見つめる。
(……私は、誰かのために弾くことが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった)
音を届けることが、こんなにあたたかいものだったなんて——。
遥がそっと琴音を見守っている。
「ありがとうございました」
遥の言葉に、琴音は静かに頷いた。
---
カフェの扉が開く音がして、赤いポニーテールがひらりと揺れた。
「ふぅん……」
海歌が、ピアノを弾いていた琴音の姿を見つけ、薄く笑う。
「琴音、またピアノを弾くようになったんだな」
「……ええ、まあ」
照れたように視線を落とす琴音。
海歌はカウンターに座ると、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「オスカー・ワイルドって知ってる?」
「え……? ええ、名前は」
「この言葉、聞いたことあるか?」
琴音が不思議そうに首を傾げる。
「……なんでしょう?」
海歌は、少し得意げに微笑んで言った。
「花は自分の喜びのために咲くのだ。」
琴音は、その言葉の意味をすぐには理解できず、少し考え込む。
「花は誰かのために咲くんじゃない。ただ、自分の喜びのために咲く。でも、それを見た人が『美しい』って思うんだよ」
海歌はコーヒーを口に運びながら、続ける。
「ピアノも同じだろ? 誰かのために弾くことが、結局は自分の喜びにもなるんじゃないか」
琴音は、静かに鍵盤に視線を落とした。
(……私の喜び)
今までは、誰かのために弾くことが怖かった。
けれど——
遥に「琴音さんの音を聴きたい」と言われたとき、心が温かくなった。
常連客が「この店にはこの音が必要だ」と言ったとき、胸が満たされた。
(……私は、ピアノを弾くことが、やっぱり好きだったのかもしれない)
ゆっくりと、指を鍵盤にのせる。
今度は、もっと自由に、心のままに——
音が、店内に柔らかく広がっていった。
店内に柔らかな旋律が響く。
それは、琴音が「自分のため」に弾く音だった。
けれど、その音は確かに、誰かの心にも届いていた。
遥は、カウンターの向こうから琴音を見つめる。
(やっぱり、この音が好きだ)
ただのBGMじゃない。
ただの演奏じゃない。
これは、琴音さんが生み出す、特別な音だ。
この店に流れる音が、こんなにも心地よいものになるなんて、最初の頃は思いもしなかった。
ふと、琴音が演奏を終え、静かに鍵盤から指を離した。
海歌は、カウンターの上に置かれた楽譜をふと目に留めた。
「……これ、遥が琴音に渡したやつ?」
琴音が頷くと、海歌は楽譜の表紙をじっと見つめる。
「……青い薔薇、か」
琴音が不思議そうに見ていると、海歌はすぐに何事もなかったように笑った。
「いや、ちょっと懐かしくなっただけ」
そう言って、ポケットに手を突っ込む——
指先が、”いつものキーケース”に触れた。
ほんの一瞬だけ、海歌の笑顔が翳る。
ポケットの中のキーケースを、無意識に握りしめる。
……けれど、それ以上は何も言わず、肩をすくめた。
彼女は言いかけた言葉を飲み込み、何事もなかったかのように肩をすくめた。
「……いいじゃん、その楽譜。琴音には似合ってる」
そして、軽く指を弾きながら店を後にする。
軽く指を弾き、ポケットの中のキーケースにもう一度触れる。
扉が閉まる音とともに、海歌の赤いポニーテールが消えた。
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「琴音さん」
遥は、彼女がこちらを向くのを待ってから、ゆっくりと言った。
「次は、僕のために弾いてくれますか?」
琴音は、一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「……遥さんのために?」
「はい」
遥は、少し照れたように笑う。
「琴音さんの音を、俺もちゃんと聴きたいんです。
だから、俺のために弾いてくれませんか?」
琴音は、視線を鍵盤へと戻す。
誰かのために弾く。
その言葉を、今の自分はどう受け止めたらいいんだろう。
けれど——
(……さっきの海歌さんの言葉を借りるなら)
「花は、自分の喜びのために咲く」
なら、私は——
「……わかりました」
琴音は、静かに息をつきながら、そっと微笑んだ。
琴音は、静かに息をつくと、再び鍵盤に指を乗せる。
「遥さんのために、弾きますね」
遥が、嬉しそうに微笑んだ。
まるで、大切なものを手にしたような、そんな笑顔だった。
(こんなふうに、誰かのために弾くことが、こんなにも嬉しいなんて)
店内に、静かな音が流れ始めた。
海歌の言葉「花は自分の喜びのために咲くのだ。」はオスカー・ワイルドの「鳥は自分の喜びのために歌い、花は自分の喜びのために咲く」を簡略化した言葉。
また、noteにて大真面目にオスカー・ワイルドについて語ったエッセイを投稿していますので、ぜひご覧ください。
https://note.com/vast_slug6391/n/n638af5af3af3
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