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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
変わる味、変わらない時間
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変わる味、変わらない時間

それからというもの、遥はカフェ ミルテに足を運ぶのが習慣になっていた。


理由は、自分でもよくわからない。


ただ、この店の静かな空気が好きだった。

そして、カウンターの向こうでコーヒーを淹れる琴音の姿を、いつの間にか目で追うようになっていた。


---


ある日、いつものように店に入ると、琴音がカウンターで小さなノートを開いていた。


「何を見てるんですか?」


「仕入れの記録です」


ノートには、細かい文字でコーヒー豆の種類や焙煎のメモが書かれていた。


「店のコーヒーって、どこから仕入れてるんですか?」


「色々です。生産地ごとに味が違うので、時々変えています」


「へえ……飲み比べてみると面白そうですね」


「ええ。……試してみますか?」


琴音がふと顔を上げる。


「試す?」


「ブラインドテイスティングです」


そう言うと、琴音はカウンターの奥に消え、すぐに戻ってきた。

手には、いくつかの小さなカップが並べられている。


「これは、今日のブレンド。そして、これは単一豆のもの」


「……つまり、飲み比べですね」


琴音は静かに頷く。


「当てられたら、コーヒー通ですね」


どこか挑むような視線を向けてくる。


「面白いですね。じゃあ、やってみます」


遥はエスプレッソカップを手に取り、ゆっくりと口をつける。


コーヒーの温度、口の中に広がる風味、舌に残る余韻――

じっくりと味わいながら、琴音の言葉を思い出す。


「苦味が強いほうが、単一豆ですか?」


そう尋ねると、琴音は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。


「……どうしてそう思いました?」


「なんとなくです。ブレンドのほうが、まろやかに調整されてる気がして」


琴音は、小さく頷いた。


「正解です」


「やった」


遥が小さく笑うと、琴音は淡々とした表情のまま、カップを拭く手を止めない。


「ブレンドは、複数の豆を混ぜてバランスを取ります。だから、単一豆よりも角が取れた味になります」


「なるほど」


「……意外と、舌が鋭いんですね」


「意外と、ってどういう意味ですか」


「……別に」


琴音はわずかに目を伏せ、カウンターの端にあるノートに視線を落とした。


「でも、コーヒーの味をきちんと考えながら飲むのは、いいことだと思います」


それは、珍しく琴音さんが素直に褒めてくれたような気がした。


遥は少しだけ肩をすくめ、再びカップを持ち上げる。


「そういえば、琴音さんはいつからコーヒーを淹れてるんですか?」


遥の問いに、琴音は少しだけ視線を伏せた。


「……正確に言うと、覚えていません」


「覚えていない?」


「物心ついたときには、カウンターの向こうで誰かがコーヒーを淹れていました。だから、"いつから"という感覚がないんです」


カウンターの向こうで、彼女はそっと指先を動かす。


「気がつけば、コーヒーの香りが日常になっていました。朝に豆を挽く音がして、お湯が注がれる香りがして……それが当たり前だったんです」


淡々とした口調だった。


「だから、"コーヒーを淹れ始めたのはいつか"と聞かれると、困りますね」


「自然と身についた、って感じですか?」


「そうかもしれません」


琴音は、ほんの少しだけ目を細めた。


「けれど、自分の手で淹れたものを誰かが飲んでくれるようになったのは、この店を引き継いでからです」


その言葉には、ほんの少しの重みがあった。


遥は、目の前のカップに視線を落とす。


「じゃあ、俺がこうやって飲んでるのも、琴音さんにとっては新しいことなんですね」


「……そうですね」


琴音はそう言いながら、カップを拭く手を止めた。


「誰かがコーヒーを飲んで、美味しいと言ってくれる。それが、こんなに特別なことだとは思っていませんでした」


静かな声だった。


遥は、エスプレッソのカップを軽く揺らす。


「じゃあ、俺は貴重な経験をさせてもらってるんですね」


「……かもしれません」


琴音はそう言って、ふっとわずかに微笑んだ。


「コーヒーって、不思議ですね。飲むだけじゃなくて、人の記憶にも染み込むというか」


琴音は、軽く瞬きをして、遥の言葉を待った。


「香りとか、味とか、そのときの雰囲気とか……なんとなく、一緒に覚えてしまう気がするんです」


「……そうですね」


カウンターの向こうで、琴音がわずかに目を細める。


「私も、いくつかそういう記憶があります」


「例えば?」


「……ん、そうですね」


琴音は一瞬考え、ゆっくりと口を開いた。


「小さい頃、まだこの店の奥で遊んでいた頃の話です」


「うん」


「お客さんの声や、カップの音、コーヒーの香り。そういうものが、ぼんやりとした記憶と結びついていて……」


彼女の指が、カウンターの縁をなぞる。


「今でも、ふとしたときに思い出すんです」


「懐かしいな、って?」


「……ええ、そんな感じです」


琴音の視線が、ほんの少し遠くを見ていた。


静かで、穏やかな時間。


遥はカップを軽く持ち上げ、一口飲んだ。


「じゃあ、このエスプレッソの味も、いつか思い出になるかもしれませんね」


「……かもしれませんね」


琴音の唇が、わずかに緩んだ。


それは、ほんの一瞬の微笑み。


けれど、俺はそれを見逃さなかった。


遥は、カップの中のエスプレッソを見つめながら、ゆっくりと言った。


「じゃあ、俺もこの店のコーヒーの味をちゃんと覚えておかないとな」


琴音は、カウンター越しに俺を見た。


「……覚えておく?」


「うん」


遥は軽く笑って、もう一口コーヒーを飲む。


「いつか、ここを離れることになったとしても、この味を思い出せたら、少しは懐かしくなるかなって」


琴音は、短く息をつくように目を伏せた。


「……なるほど」


「それに、たぶんこれも記憶に残るんですよ」


遥は、カウンターの向こうの彼女を見た。


「この店の雰囲気とか、琴音さんがコーヒーを淹れる姿とか」


琴音は、一瞬だけまばたきをした。


「私が?」


「ええ。だって、店のコーヒーの味って、ただ味覚だけの問題じゃないでしょう?」


遥は指でカップの縁をなぞる。


「誰が淹れてくれたか、どんな気持ちで飲んだか。そういうものが全部混ざって、"記憶に残る味"になるんじゃないですか?」


琴音は、静かに遥の言葉を聞いていた。


「……そうかもしれませんね」


ゆっくりと頷くその表情は、どこか柔らかかった。


「この店のコーヒーが、誰かの記憶に残るなら、それは嬉しいことですね」


「俺の記憶には、もうしっかり刻まれてますよ」


そう言うと、琴音はふっと目を伏せ、僅かに唇を緩めた。


それは、ごく淡い、けれど確かにそこにある微笑みだった。


---



「琴音さんの記憶に残ってるコーヒーの味って、どんなものですか?」


遥がそう尋ねると、琴音は少し考えるように視線を落とした。


「……いくつかありますけど」


カウンターの奥で、そっとカップを拭く手が止まる。


「やっぱり、一番記憶に残っているのは、最初に自分で淹れたコーヒーの味ですね」


「最初に?」


「ええ」


琴音は、ふっと遠くを見るような目をした。


「まだ、小学生の頃でした」


遥は少し驚いた。


「そんなに小さい頃に?」


「コーヒーを淹れたかったわけじゃなくて、ただ、やってみたかったんです」


カウンターの縁をなぞる指が、わずかに動く。


「店の奥で、大人たちがいつもやっていることを、自分もできるんじゃないかって」


「それで?」


琴音は、小さく微笑んだ。


「当然、失敗しました」


「失敗?」


「ええ。豆の量もわからないし、どのくらい挽けばいいのかも知らなくて……」


淡々と語る声には、どこか懐かしさが滲んでいた。


「出来上がったのは、とてもじゃないけど飲めないものだったんです」


「そんなにひどかったんですか?」


琴音は小さく頷く。


「とても、苦くて」


ふと、琴音の指がカップの縁を撫でる。


「でも、不思議なんです」


「不思議?」


「本当に苦くて、美味しくなかったはずなのに、今思い出すと、どこか甘い気がするんです」


遥は、カウンターの上のカップを見た。


「……思い出の中で、味が変わるってことですか?」


琴音は、小さく頷く。


「ええ。たぶん、そのときの気持ちとか、一緒にいた人のこととか……そういうものが、あとから味を変えていくのかもしれません」


遥は、一口エスプレッソを飲む。


苦味の奥に、ほんのわずかに甘さを感じた。


「じゃあ、いつかこの店のコーヒーの味も、琴音さんの記憶の中で変わるかもしれませんね」


琴音は、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。


けれど、すぐに静かに微笑んだ。


「……そうかもしれませんね」


その笑みは、どこか優しかった。


「記憶に残る味って、結局はその時の気持ち次第なのかもしれませんね」


遥がそう言うと、琴音は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。


「……気持ち次第?」


「うん。コーヒーそのものの味は変わらないけど、そのとき何を考えてたかとか、誰と一緒にいたかで、感じ方は変わるんじゃないかって」


遥はカップを軽く揺らしながら続ける。


「最初に淹れたコーヒーが苦かったのに、今はどこか甘く思えるのも、琴音さんにとっての思い出が、その味を少しずつ変えていったからじゃないですか?」


琴音は、カウンターの向こうで静かに遥の言葉を聞いていた。


「……かもしれませんね」


少しの間を置いて、ゆっくりとそう答える。


「確かに、そのときの気持ちで味は変わるのかもしれません」


琴音はそっと視線を落とし、指先でカウンターの縁をなぞった。


「じゃあ……」


遥は、エスプレッソをもう一口飲む。


「この店で飲むコーヒーの味も、いつか変わるのかな」


そう言うと、琴音はほんの少しだけ目を細めた。


「それは……潮見さん次第ですね」


彼女の声は、どこか静かで、けれど確かに、柔らかだった。


--コーヒーを淹れ始めたのはいつか--

そのままの意味では小学生の時ですが、琴音はそのままの意味ではとらえていない。


ーー珈琲補足ーー

・ブレンドのエスプレッソは「エスプレッソブレンド」

一般的なカフェで提供されるエスプレッソは複数の豆をブレンドしていることが多い。


・単一豆のエスプレッソは「シングルオリジンエスプレッソ」

一つの農園・生産地の豆だけで淹れたエスプレッソ。

「シングルエスプレッソ」でも通じるが、「シングルショットのエスプレッソ(30ml)」と誤解されることもある。



誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。

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