音のある日常
それから、カフェ ミルテには、静かな音が流れるようになった。
琴音が、ふとした瞬間にピアノへ向かう。
開店前、朝の静けさの中で。
昼下がり、コーヒーの香りが漂う時間に。
そして、閉店後——誰もいなくなった店内で。
自然に、指が鍵盤をなぞるようになっていた。
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遥は、カウンターの中でピアノの音を聴きながら、そっとまぶたを閉じた。
音が静かに心に染みていくのを感じながら——。
(……落ち着くな)
かつて、琴音がピアノと向き合う前は、こんな音はなかった。
店内に流れるのは、カップが重なる音や、コーヒーの抽出音。
けれど、今は違う。
ピアノの旋律が、ミルテの静けさに溶け込んでいた。
(これが、この店の「音」なんだ)
−−いや、違う
これが、琴音さんの音なんだ。
遥は、そう思った。
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ある日、カフェのドアが開く。
心地よいピアノの旋律に誘われるように、天音がひょっこりと顔を出した。
「あ、やっぱり音がすると思った」
琴音は、一瞬驚いたように振り向く。
天音は、カウンターに腰掛けながら、しばらく演奏を聴いていた。
そして、満足げに微笑む。
「前は、音が少し震えてた。でも、今はちゃんと地に足がついてる感じ。……うん、いい音になったね」
琴音は、その言葉に少し驚いたように目を瞬かせる。
「……なった、とは?」
「「前に聴いたときは、もっとドキドキしてたよね?」
天音の言葉に、琴音は少しだけ笑う。
(……確かに、そうかもしれない)
今、音は確かに違っていた。
もう、迷いのない音。
天音が帰ったあとも、琴音はしばらくピアノの前に座っていた。
自分の音を、もう一度確かめるように。
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——そして、またある日のこと。
カフェミルテの扉が開く。
静かな足音が近づき、ふと落ち着いた低い声が響いた。
「静かで、いいですね」
霧島秋人だった。
彼は、コーヒーを注文し、ピアノの音に耳を傾ける。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あなたの音には……物語がありますね」
琴音は、一瞬驚いたように手を止める。
秋人は、静かに微笑んだ。
「音には、弾く人の想いが乗る。あなたのピアノは、優しくて、少し切なくて、でも温かい」
琴音は、静かに鍵盤を見つめた。
(……本当に?)
自分ではわからない。
でも、そう言われると、そんな気もする。
秋人の言葉が、静かに胸の奥に残った。
遥は、その様子をそっと見守る。
彼女の音は、今ここにあるもの——。
それを、誰よりも近くで聴いていたいと思った。
(それが、琴音さんの音なんだ)
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カフェ ミルテには、静かなピアノの音が響く。
それは、かつての記憶ではなく、今、ここにあるもの。
この店の「音」として、誰かの心に届いていく。
琴音は、そんな日々を愛おしく感じ始めていた。
(この店に、このピアノがあってよかった)
音は消えない。
静寂の中でさえ、耳を澄ませば、そこにある。
それは、ずっと続いていくものだから。
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このお話はちょうど中間地点ですが、エピローグまで書き上げました・・・
プラトニックで、二人の関係がゆったりジレジレと進んでいく作品ですが、最後まで読んで損はさせません・・・!




