静寂の中、響く音
カフェ ミルテの夜は、音楽が終わった後のホールのように静かだった。 最後の客が去り、残るのはコーヒーの香りと、時計の針の微かな音だけ。
いつものように、琴音はピアノの前に座る。
閉店後の店内には、彼女とピアノの音だけが存在していた。
そっと指を鍵盤に乗せる。
まずは、『ミルテの花』。
ゆっくりと、けれど確かに音が紡がれていく。
以前よりも迷いが少なくなっている。
響きが、柔らかく夜の闇へと滲んでいく。
最後の音が、柔らかく消えていく。
そして——
琴音の指先が、自然と新しい鍵盤に触れた。
『悲愴 第二楽章』。
母に贈りたかった曲。
けれど、贈る前に、母はいなくなった。
(……でも)
震える指先を、そっと鍵盤に押し当てる。逃げたくなかった。
最初の音を鳴らす。
落ち着いた、穏やかな響きがカフェの木の壁にそっと溶け込んでいく。。
(今なら、弾けるかもしれない)
琴音は、ゆっくりと旋律を紡ぎ始めた。
静かに、丁寧に、記憶をなぞるように。
かつて、何度も練習した指の動き。
何度も止まってしまった場所も、今は流れるように続いていく。
心の奥に閉じ込めていたものが、少しずつほどけていくようだった。
(……ああ)
音が、変わった。
ただ鍵盤を押すだけではなく、自分の気持ちが宿っている。
音が、届いている。
母にはもう届かないかもしれない。
けれど、今ここにあるこの音は、確かに存在していた。
遥はただ、じっとその音を聴いていた。
——最後の和音が、柔らかく響き、そして静寂が訪れる。
ピアノの前で、琴音はそっと目を閉じた。 まつげがわずかに震えた。
(……弾けた)
ようやく、弾けた。
「……綺麗な音でした」
静かな声が、カウンターの向こうから聞こえた。
振り向くと、遥がそこに立っていた。
「全部、聴いていましたか?」
琴音が微笑みながら尋ねる。
「ええ。最後まで、ずっと」
遥の言葉は、柔らかく、どこか誇らしげだった。
「……ようやく、弾けましたね」
琴音は、鍵盤にそっと手を置いたまま、微笑んだ。
遥もまた、微笑んでいた。
夜のカフェ ミルテには、まだピアノの余韻が残っていた。
——ピアノの最後の音が消えていく。けれど、その余韻は、静かに店内に漂っていた。
琴音は鍵盤にそっと手を置いたまま、目を閉じる。
(……ようやく、弾けた)
心の奥で何かがほどけるような感覚があった。
ずっと避けてきた音。
ずっと怖かった旋律。
けれど、今は違う。
「ようやく、弾けましたね」
静かに呟いた自分の声は、どこか晴れやかだった。
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カウンターの向こうで、遥が静かに微笑んでいる。
「これからも、琴音さんの音を聴きたいです」
琴音は、驚いたように彼を見る。
「……これからも?」
「はい」
遥の声は、穏やかで、けれどどこか真っ直ぐだった。
「ピアノが、琴音さんにとって大切なものなら……それをずっと続けてほしいなって思います」
琴音は、一瞬だけ考え込む。
けれど——
(……そうですね)
次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「……これからは、少しずつでも弾いていこうと思います」
自分の言葉が、まるで新しい未来を示すかのように思えた。
遥は、ゆっくりと頷いた。
「楽しみにしています」
ピアノの上に、優しい静寂が流れる。
そして——
カフェ ミルテには、新しい日常が生まれようとしていた。
——音は、これからも続いていく。
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そして、またある日のこと。
カフェミルテの扉が開く。
静かな足音が近づき、ふと落ち着いた低い声が響いた。
「静かで、いいですね」
霧島秋人だった。
彼は、コーヒーを注文し、ピアノの音に耳を傾ける。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あなたの音には、物語がありますね」
琴音は、一瞬驚いたように手を止める。
秋人は、静かに微笑んだ。
その瞳には、どこか遠くの景色を見ているような色があった。
「音には、弾く人の想いが乗るものです。あなたのピアノは——優しくて、少し切なくて、それでいて、どこか温かい。」
琴音は、静かに鍵盤を見つめた。
まるで、自分の指が生み出す音を確かめるように。
(……本当に?)
自分ではわからない。
でも、そう言われると、そんな気もする。
秋人の言葉が、静かに胸の奥に残った。
遥は、その様子をそっと見守る。
彼女の音は、今ここにあるもの——。
それを、誰よりも近くで聴いていたいと思った。
(それが、琴音さんの音なんだ)
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カフェ ミルテには、静かなピアノの音が響く。
それは、かつての記憶ではなく、今、ここにあるもの。
この店の「音」として、誰かの心に届いていく。
琴音は、そんな日々を愛おしく感じ始めていた。
(この店に、このピアノがあってよかった)
音は消えない。
たとえ、一度途切れても——。
静寂の中でさえ、耳を澄ませば、そこにある。
それは、ずっと続いていくものだから。




