触れた旋律、止まる音
夜のカフェは、まるで深く息を吐き出した後の静寂のようだった。
カフェ ミルテの閉店後、いつものように琴音はピアノの前に座った。
指を鍵盤に置き、ゆっくりと『ミルテの花』を奏でる。
指が沈むたび、わずかに木の温もりが伝わる。
以前よりも迷いが少なくなっている。
音は、滑らかに空気を震わせ、店内に静かに響いた。
——最後の音が、優しく消えていく。
(……弾けた)
そう思った瞬間、琴音の指は自然と鍵盤の上を彷徨った。
その先にあったのは——
『悲愴 第二楽章』。
遥から受け取った、青い薔薇のエンボスを拵えた特別な楽譜。
母に贈りたかった曲。
ミルテの花の栞を譜面の横に添え、
ふと、最初の音を押してみる。
深く、穏やかで、どこか切ない響きが、静寂の中に溶ける。
(……あの頃と同じ音)
琴音は、そっと次の音へと指を滑らせた。
旋律が、少しずつ形になっていく。
けれど——
途中で、手が止まる。
鍵盤の上で、指がわずかに震えた。
「……まだ、弾けない」
静かに呟く。
音を紡ぐほどに、遠くなっていく気がした。
店内は静かだった。ただ、自分の呼吸の音だけが聞こえるようで—
すると——
「今の音、とても綺麗でしたよ」
遥の声がした。
視線を向ける前に、鼓動がわずかに跳ねる。
振り向くと、カウンターの向こうで、彼は静かに微笑んでいた。
「無理に最後まで弾かなくてもいい。でも、今の音は、すごく綺麗でした」
琴音は、少しだけ視線を落とす。
どうしてだろう、遥の声がそう言うと、本当にそうなのかもしれないと思えた。
そして、小さく息をつくと、そっと微笑んだ。
(……私は、また弾けるのかもしれない)
心のどこかで、そう思った。




