もう1度、音と向き合う
それから、琴音は少しずつピアノに向かうようになった。
閉店後、誰もいなくなった店内。
ふとした瞬間、彼女の足はピアノの前へと向かう。
鍵盤に手を置く。
けれど、すぐに弾くわけではない。
(……私は、本当に、また弾けるのだろうか)
そんな疑問を、毎晩のように抱えながら、琴音はそっと鍵盤に触れていた。
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ある日、いつものようにカフェ ミルテに入ると、店の奥から微かな音が聞こえた。
(……ピアノの音?)
遥は、足を止める。
扉の向こうで、琴音が静かに鍵盤をなぞっていた。
『ミルテの花』。
相変わらず、最後まで弾かずに途中で止まる。
けれど、昨日よりも、少しだけ長く音を紡いでいた。
遥は、そっと微笑んだ。
(少しずつ、向き合ってるんだ)
「……まだ聴かないでください」
琴音が気づき、照れくさそうに振り向いた。
「すみません、つい」
「いえ……ただ、まだ」
琴音は言葉を探しながら、鍵盤に視線を落とした。
「……本当に、弾けるのかなって思うんです」
「弾けてますよ」
遥は、即答した。
「昨日よりも、長く音が続いていました」
琴音は、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「……気づいていました?」
「ええ。毎日、少しずつ変わってます」
琴音は、一瞬だけ言葉を失った。
そして、小さく息をつく。
「……遥さんは、時々、ずるいですね」
「そうですか?」
「ええ」
けれど、琴音の唇には、微かな笑みが浮かんでいた。
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その日から、琴音はさらにピアノに向かう時間が増えた。
最初は短いフレーズだけ。
次第に、一曲の中のワンフレーズが続くようになる。
最初は小さな音だった。
けれど、日に日に音が伸びていく。
遥は、カウンターの向こうからその音を聴きながら、彼女が少しずつ前へ進んでいるのを感じていた。
(……このまま、いつか)
彼女の指先が、『悲愴』へと伸びる日が来るのだろうか。
遥は、琴音の背中を見つめながら、そう思った。




