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エスプレッソより、少しだけ甘く  作者: かれら
重なる時間、変わる香り
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音の記憶、静かな旋律

翌日。


カフェ ミルテの扉を開けると、店内にはいつもと変わらない朝の空気が流れていた。


けれど、いつもと違うのは——


カフェの奥にある、あの古びたアップライトピアノ。


昨日、調律師が来て、ようやく音が整えられた。


今なら、綺麗な音が鳴るはず。


カウンターに立つ琴音の視線も、ふとピアノのほうへ向いていた。


「……ピアノ、綺麗にしてもらえましたね」


遥が言うと、琴音は静かに頷いた。


「ええ。久しぶりに、ちゃんとした音が出るはずです」


「試しに、弾いてみますか?」


琴音は、カウンターの向こうで少しだけ戸惑ったように視線を落とす。


「……まだ、心の準備が」


その言葉を聞いて、俺はふっと微笑んだ。


「……琴音さんが、どんな音を奏でるのか、楽しみです」


琴音は、一瞬驚いたように目を見開いた。


そして、そっと微笑む。


「……私も、いつか」


その言葉には、まだ迷いが残っている。


けれど、それでも——


「いつか、その音を聴かせてください」


遥の言葉に、琴音はゆっくりと頷いた。


まるで、その「いつか」が少しずつ近づいているように——


--


カフェ ミルテの閉店後。


店内は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


カウンターの奥、琴音は静かに立ち尽くしていた。


視線の先には、調律を終えたばかりのアップライトピアノ。


(……私は、本当に弾けるのだろうか)


迷いながらも、足が自然とピアノへと向かう。


椅子に腰を下ろし、そっと蓋を開ける。


鍵盤が整然と並び、長い間触れられるのを待っていたかのように見えた。


(どのくらい、弾いていなかっただろう)


指先を鍵盤の上に置く。


けれど、すぐには弾かない。


まるで「歩き方を思い出す」ように、慎重に、ゆっくりと——


ポロン、と。


かすかな音が、店内に響いた。


それは、遥か昔、母と一緒に奏でた記憶の音。


(……ミルテの花)


気づけば、指は自然とメロディーをなぞっていた。


R.シューマン『ミルテの花』。


母が好きだった曲であり、いつもそばで聴いていた音。


ぎこちないけれど、確かに音は響く。


——音は消えない。


天音の言葉が、ふと頭をよぎる。


けれど、最後まで弾くことはできなかった。


ふっと指を止める。


静寂が戻る。


「……まだ、怖いですね」


琴音は、小さく呟いた。


けれど、その声には、どこか安堵の色が滲んでいた。


「今の音、すごく綺麗でしたよ」


驚いて振り向くと、遥がカウンターの影からそっと微笑んでいた。


(……聴いていたんですね)


琴音は、ふっと目を伏せた。


「まだ、うまく弾けません」


「それでも、すごく綺麗でした」


琴音は、鍵盤にそっと視線を落とし、微かに微笑む。


(私は……また、弾けるのだろうか)


夜のカフェ ミルテには、まだ微かに、ピアノの余韻が残っていた。

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