穏やかな時間、知らなかった楽しさ
調律の日。
昼下がり、カフェ ミルテのドアをくぐり、遥と琴音は外へ出た。
「……江の島に来るのは久しぶりです」
島へ続く橋を渡りながら、琴音がふと呟く。
「そうなんですか?」
「ええ、昔はよく来ていましたけど、最近はなかなか機会がなくて」
彼女はゆっくりと海を眺める。
潮風がそっと吹き抜け、琴音の黒髪が軽く揺れた。
「なんだか、懐かしいですね」
遥は、そんな彼女の横顔を見ながら、ふっと笑った。
「じゃあ、今日は思いっきり江の島を満喫しましょうか」
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参道へ足を踏み入れると、どこからともなく香ばしい香りが漂ってきた。
「……たこせんべいですね」
琴音が立ち止まり、屋台のほうを見る。
「食べたことありますか?」
「昔は……でも、こうして立ち寄るのは久しぶりです」
「せっかくなので、一枚いきましょう」
遥は迷わず注文し、熱々のたこせんべいを琴音に差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
琴音は少し戸惑いながらも、そっと受け取る。
「熱いので気をつけてくださいね」
一口かじると、パリッとした音が鳴った。
「……美味しい」
琴音の唇が、ふっとほころぶ。
遥は、その表情を見て少しだけ驚いた。
「琴音さん、今すごくいい顔してますよ」
「え?」
「さっきまで、どこか緊張してましたよね?」
琴音は、一瞬目を瞬かせる。
「……そうかもしれません」
「ほら、もっとリラックスしましょうよ。今日は楽しまないと」
琴音は少しだけ考えて——
「……そうですね」
そして、もう一口、たこせんべいをかじった。
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たこせんべいを食べながら歩き、江島神社の赤い鳥居が見えてくる。
「久しぶりに参拝してみませんか?」
「……そうですね」
琴音は静かに頷いた。
階段を上りながら、俺はふと琴音の歩幅を気にする。
「疲れてませんか?」
「大丈夫です。でも、こうして歩くのもいいですね」
「たまには息抜きも大事ですから」
琴音は、少しだけ微笑んだ。
本殿に到着し、並んで手を合わせる。
何を祈ったのかは、互いに聞かない。
けれど、琴音が目を閉じる姿は、どこか穏やかで、優しかった。
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階段を降りながら、琴音がふと口を開いた。
「……こうして歩くのも、悪くないですね」
「そうですね。江の島、気に入りました?」
「ええ。なんというか……懐かしくて、新しい感じがします」
「新しい?」
「昔と変わらない景色なのに、誰と歩くかで違って見えるというか」
遥は、その言葉に少しだけ驚く。
琴音が、そんなふうに思うなんて。
「それって、楽しんでくれてるってことですか?」
琴音は、ほんの少し照れくさそうに目を伏せる。
「……はい」
遥は、その答えを聞いて、なんだか嬉しくなった。
(……良かった)
この時間を、琴音が「楽しい」と思ってくれること。
それが、今の俺にとっては何よりも大事だった。
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江の島を歩き続け、気づけば日が傾き始めていた。
夕暮れが近づき、海風が少しだけ涼しくなる。
仲見世通りの喧騒から離れ、静かな小道を歩く。
琴音は、ふと足を止めた。
「……なんだか、帰るのが惜しいですね」
その言葉は、無意識に口をついて出た。
(……あれ?)
自分で言った言葉に、少し驚く。
でも、それが本心だった。
(この時間が、もう少しだけ続けばいいのに)
彼と並んで歩くこの時間が、心地よくて——
「……じゃあ、もう少し歩きませんか?」
琴音が顔を上げると、遥が微笑んでいた。
「せっかくだし、シーキャンドルまで行きましょう」
シーキャンドル。
江の島の頂上にある、展望灯台。
(……行ってみたい)
琴音は、静かに頷いた。
「……はい」
遥が歩き出し、琴音はその背中を追いかける。
この時間が、もう少しだけ続くように——




