調律とデートの誘い
翌日、カフェ ミルテの昼下がり。
窓の外では、午後の日差しが柔らかく降り注いでいた。
常連客の波が落ち着いた頃、俺は琴音に話を持ちかける。
「琴音さん、ピアノのことなんですけど」
カウンターの向こうで、琴音は静かにカップを磨いていた。
手元を止めずに顔を上げる。
「はい?」
「琴音さんが弾くかどうかは別として、店にある以上、ピアノはちゃんと調律しておいたほうがいいんじゃないですか?」
その言葉に、琴音の手が一瞬止まった。
カップの縁を指でなぞる仕草が、わずかに迷いを帯びる。
「……調律、ですか?」
「あのままじゃ、せっかくのピアノも宝の持ち腐れになっちゃいますし。お客さんが使うこともあるかもしれないし、きちんと音が出る状態にしておいたほうがいいかなと」
琴音は少しだけ目を伏せ、指先で静かにカップを回す。
「……確かに、それはそうですね」
「それで、ちょうど調律師さんにお願いしてみたんです」
その言葉に、琴音の瞳が驚いたように俺を捉える。
「……もう、手配を?」
「ええ。日程も調整して、近々来てもらえることになりました」
琴音は、ふっと息を吐いた。
それが安堵なのか、呆れなのか、自分でも判断がつかないような表情だった。
「あなた、時々強引ですよね」
「そうですか?」
「……ええ。でも、まあ、確かに必要なことではありますね」
遥は微笑んだ。
「それならよかったです。で、その日なんですけど」
琴音がじっとこちらを見つめる。
「調律の間、お店が使えなくなるので、少し出かけませんか?」
琴音は、わずかに目を瞬かせた。
「……出かける?」
「せっかくなら、気分転換に。江の島でも散歩しませんか?」
言葉を選ぶように、さりげなく、だが確実に誘いをかける。
琴音は、ほんの少しだけ考え込んで——
「……そうですね」
そして、小さく微笑んだ。
「たまには、そういうのもいいかもしれません」
その微笑みが、俺の胸にひっそりと残る。
調律の間の、ささやかな時間。
それがただの「気分転換」ではなく、二人にとって少しだけ特別なものになるかもしれない——




