さりげない問い、隠された理由
夜、カフェ ミルテの閉店作業を終えた頃。
カウンターの奥でカップを拭いていた琴音は、ふと遥の方を見た。
彼はテーブルを片付けながら、何気なく時計を確認している。
(……最近、潮見さんは時間を気にすることが多い気がする)
朝も、夜も。
まるで、何かをしているような。
(海歌さんの言葉が、少しだけ気になっている)
だから、何気なく——
「最近、何をしているんですか?」
その言葉が口をついて出た。
遥は、一瞬手を止める。
「え?」
「最近、閉店後もすぐに帰ってしまうし、朝も早いですよね」
琴音は、カウンターの向こうから遥を見つめた。
「……何か、してるんですか?」
遥は、少しだけ視線をそらす。
「ちょっと、まあ……」
「……本当に?」
琴音は、静かに問いかける。
遥は苦笑しながら、カウンターに手をついた。
「琴音さんには、まだ言えませんね」
「……そうですか」
琴音は、それ以上は追及しなかった。
でも——
(やっぱり、何かしてる)
彼の曖昧な答えは、逆に琴音の興味を強くした。
(何を隠しているの……?)
その答えを知りたいと思う気持ちが、胸の奥に小さく芽生えていた。
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潮風がそっと頬を撫でる。海の香りが夜の静寂と混ざり合い、遥はゆっくりと深呼吸をした。
江の島の片隅、観光客の賑わいが消えたあとの灯台近くのベンチ。
「お待たせ、遥くん」
柔らかな歌声のような声が、潮騒の合間に響く。
天音が、月明かりの下、ふわりと微笑みながら歩いてきた。
手には、小さな紙袋。
遥は思わず息をのむ。
「……それ、もしかして」
「うん、楽譜」
天音は、ベンチに腰掛けると、紙袋をそっと遥に差し出した。
遥は、慎重にそれを受け取り、中を覗く。
そこには、見覚えのない楽譜が入っていた。
でも、確かにそれは、秋人が言っていた青い薔薇のエンボスが入った表紙だった。
「本当に……見つかったんですね」
天音は、小さく微笑む。
「友達の伝手で、昔の版を持ってる人がいたんだって。でも、一冊しかなかったらしい」
遥は、ゆっくりと楽譜を取り出し、指で表紙をなぞる。
青い薔薇のエンボス。
長い年月を経て、少しだけ色褪せているけれど、それがかえってこの楽譜の持つ時間を感じさせた。
遥は、ページをめくる。
そこには、丁寧に書き込まれた指使いや注意書きが残っていた。
(……もしかして、琴音さんのお母さんが使っていたものと、まったく同じ……?)
遥は、天音を見つめた。
「これ……渡してくれた人は、何か言っていましたか?」
天音は、夜風に髪を揺らしながら、小さく首を傾げる。
「“その楽譜が、もう一度誰かの手で音になるなら、それは嬉しいことだ”って言ってたよ」
遥の心が、静かに震える。
この楽譜は、ただの紙ではない。
誰かが使い続け、大切にしてきたもの。
そして、今、琴音の元へと渡る。
「……ありがとう、天音さん」
遥は、心からの感謝を込めて言った。
天音は、ふわりと笑いながら、夜の静けさに溶け込むようにギターの弦を指で軽く弾いた。
「ねぇ、遥くん」
「はい?」
「その楽譜、琴音ちゃんに渡すとき、ちゃんと“あなたのため”って言ってあげてね」
遥は、一瞬戸惑う。
「……“琴音さんのため”ですよ」
「ううん、それも違う」
天音は、少しだけ首を振る。
「遥くんが、彼女に弾いてほしいんでしょ?」
遥は、言葉を失った。
「それなら、ただ楽譜を渡すんじゃなくて——」
天音は、ふっと笑う。
「遥くんの気持ちが、ちゃんと残るものも一緒に贈らなきゃ」
遥は、夜風に揺れる波を見つめる。
天音の言葉は、どこかでわかっていたことだった。
(……僕は、琴音さんの音を聴きたいんだ)
母のためでもなく、誰のためでもなく。
ただ、自分が、彼女の音を聴きたい。
遥は、静かに楽譜を抱きしめた。
「でも……俺に、そんなもの、作れるでしょうか」
「ふふ、きっとね」
天音は、にこっと微笑む。
「だって、遥くん、いつも人のために何かを考えてるじゃない? だから、今度は“遥くんが、琴音ちゃんに贈りたいもの”を考えてみなよ」
遥は、ミルテの花のことを思い浮かべた。
ずっと色褪せることなく、そっと寄添うように残る花。
彼女の楽譜に、挟まれるもの。
「……そうですね」
天音は、満足げに頷いた。
「きっと、いい音になるよ」
そう言い残し、彼女はふわりと踵を返した。
「またね、遥くん」
潮騒の音が二人の間を優しく包み込む。
遥は、そっと楽譜を見つめる。
次にこの楽譜が開かれるとき、そこにはどんな音が生まれるのだろう。
遥は、ゆっくりと目を閉じ、静かに息を整えた。
心の中で、ピアノの音が響いた気がした——。




