店長の名前
あの日以来、遥は何となくカフェ ミルテに通うようになった。
最初はただの気まぐれだったのかもしれない。
けれど、この静かな店の空気が心地よく、気がつけば、カウンターの一角が「いつもの席」になっていた。
「店長、ブレンドひとつ」
カウンターの向こうで、彼女は相変わらずの所作でコーヒーを淹れる。
無駄のない動き、柔らかな湯気、静かに漂う香ばしい香り。
「どうぞ」
差し出されたカップを手に取る。
いつも通りの味。けれど、ふとした日によって、ほんのわずかに感じる苦味や甘さが違う気がする。
遥はそんな違いを確かめるように、一口ずつ飲んだ。
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ある日のこと。
店のドアが勢いよく開き、軽快な声 が響いた。
「琴音ちゃん、今日のプリンはある?」
遥は、ふとカウンターの向こうを見やる。
「こんにちは、前田さん」
彼女が、静かに返す。
目の前の椅子に座ったのは、どこか元気の良さを感じさせる女性。
年の頃は、五十代後半くらいだろうか。
短めの髪を手でふわっと整えながら、馴染んだ様子でカウンターに身を乗り出していた。
「あるならね、紅茶とセットでお願いね。今日もダージリンでいいわ」
「わかりました」
彼女――いや、琴音は静かに頷き、店の奥へと向かった。
(琴音……店長の名前、そういうんだ)
遥は、静かにその響きを心の中で繰り返した。
しっくりとくるようで、けれど、どこか儚げな響きを持つ名前だった。
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しばらくして、前田さんが俺に気づき、興味深そうに身を乗り出してきた。
「ねえねえ、あなた新しいお客さん? それとも……」
いたずらっぽく目を細める。
「この店、気に入ったの?」
「ええ、まあ……落ち着くので」
「ふうん。琴音ちゃんの淹れるコーヒーはね、一度飲んだら忘れられないのよ。わたしは、紅茶がお気に入りだけどね」
前田さんは笑っていた。
遥は、視線をカップに落とす。
確かに、どこかクセになる味だ。
すると、琴音が紅茶とプリンを運んできた。
「どうぞ」
「ありがとう、琴音ちゃん」
前田さんは嬉しそうに受け取り、俺の方をちらりと見た。
「ねえ、あんた、店長の名前聞いた?」
「あ、いや……今、初めて」
「でしょう? だって、琴音ちゃん、自分から名乗らないんだもの」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。だからね、呼びたいならちゃんと聞いたほうがいいわよ?」
「……なるほど」
遥は、カウンターの向こうを見る。
「琴音さん、と呼んでもいいですか?」
そう尋ねると、琴音はほんの一瞬だけ、驚いたような表情を見せた。
けれど、すぐに静かに頷いた。
「……はい」
短く、それでいて柔らかい返事だった。
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