少しだけ、拗ねた夜
翌日、カフェ ミルテの閉店後。
店内の片付けを終え、琴音はカウンターに座っていた。
(……今日も潮見さんはいない)
昨日に続き、閉店後の雑談の時間もなく、静まり返った店内。
(別に、仕事なんだから仕方ないけれど)
なんとなく、カウンターの奥に視線を送る。
普段なら、そこにいるはずの人がいない。
ふと、空のカップを手に取りながら、小さく息をついた。
「……最近、潮見さんは忙しいんですね」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「忙しいのはいいことですけど、ちょっとくらい顔を見せてくれてもいいのに」
琴音は、自分で言ってから、ハッとした。
(……何を言ってるんだろう、私)
まるで、拗ねているみたいだ。
「別に、寂しいわけじゃないのに」
そう言いながら、指先でカップの縁をなぞる。
(……本当に?)
答えが出ないまま、夜のカフェには静かな時間が流れていた。
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観光船の仕事を終え、遥はゆっくりと江の島の夜道を歩いていた。
潮の香りが微かに漂う夜風が、火照った体を冷ましてくれる。
(今日は、結構動いたな……)
ふと、視線を上げると、見覚えのある建物が目に入った。
カフェ ミルテ。
店の前を通ると、閉店時間を過ぎているはずなのに、まだ灯りがついていた。
(琴音さん、まだ店にいるのか?)
何気なく店の中を覗くと——
琴音が、カウンターにぽつんと座っていた。
カップを両手で包み込みながら、じっと何かを考えているようだった。
(……珍しいな)
琴音さんは、いつも静かだけど、どこか落ち着いた雰囲気がある。
けれど今は、どこか違う。
ぼんやりとカップの縁を指でなぞる仕草。
ふと小さく息をつく様子。
寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか——?
遥は、しばらく店の前で立ち止まっていた。
扉を開けて、声をかけるべきか。
でも、なんとなく——
今、僕が声をかけたら、彼女の「今の気持ち」を壊してしまうような気がした。
結局、遥はそのまま店を離れることにした。
(……明日、ちゃんと顔を出そう)
そう思いながら、カフェを後にする。
店の灯りは、まだ消えないままだった。




