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決意の楽譜

静かな夜、カフェ ミルテ

カフェの営業が終わり、店内には静けさが広がっていた。


遥はカウンターでネルドリップの器具を片付けながら、じっと考え込んでいた。


『母に贈りたかった曲でした。でも、その機会はなくなってしまった』


その言葉が、遥の胸の奥で、静かにくすぶり続けていた。


そのとき、カフェのドアが静かに開いた。


「……もう、閉める時間かな?」


柔らかな声が響く。

振り向くと、秋人がカウンターに立っていた。


「ええ、あと片付けが残っているくらいです」


秋人は、軽く頷きながらカウンターに腰を下ろす。


「じゃあ、一杯だけもらおうかな」


遥は静かにネルフィルターをセットし、ゆっくりとお湯を注ぐ。

秋人の来店はいつも唐突で、けれど、不思議と馴染む。


そして、コーヒーが落ちる間に、遥はふと口を開いた。


「秋人さん、ちょっと相談があるんです」


「ほう?」


秋人は興味深げにカップを受け取り、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。


「琴音さんに、何かできることはないかと考えてるんです」


「……彼女のために?」


「ええ」


遥は、慎重に言葉を選びながら続けた。


「先日、琴音さんが話してくれました。

『母に聴かせたかった曲がある。でも、それはもう叶わない』 って」


秋人は静かにカップを置いた。

その目は、深い思索の色を湛えている。


秋人は、しばし考えるように視線を巡らせた。

やがて、ふっと微笑む。


「なるほどな……」


「……秋人さん?」


「そういえば、彼女の母親は、いつも同じ楽譜を使っていたな」


「同じ楽譜?」


遥は驚いたように秋人を見た。


「彼女は、楽譜をコレクションするタイプではなかった」

「いつも手に馴染んだものを使い続ける人だったよ」


秋人の声には、どこか懐かしさが滲んでいる。


「特に、ベートーヴェンの『悲愴』と、シューマンの『ミルテの花』。

彼女が演奏するたびに目にしたのは、いつも同じ出版社の楽譜だった」


「出版社は?」


「○○だな。表紙には青い薔薇のエンボスがあった」


「……青い薔薇?」


「そう。彼女は、それが好きだったんだろう」

「『この楽譜は、音が馴染むから』って言っていたよ」


遥は、目の前のコーヒーを見つめながら考え込む。


(もし、その楽譜を琴音さんに渡せたら——)


何かが変わるかもしれない。


「……その楽譜を、探してみたいです」


秋人は、静かに目を細めた。

「意味のある贈り物になるといいな」


遥は、ゆっくりと頷いた。

その手は、決意を込めて、カップの縁をそっとなぞっていた。


けれど——


(どこで、手に入れればいい?)


絶版の楽譜。

普通の楽器店では、もう扱っていない可能性が高い。

ネットで検索しても、オークションで高額になっているものばかりだった。


遥は、小さく息を吐く。


「簡単には、見つからないか……」


秋人は、その様子を見ながら、口元に微かな笑みを浮かべる。

「探し物ってのは、意外と縁がないと手に入らないものだよ」


遥は、しばらく考え込んだあと、ある顔を思い浮かべた。


——天音さんなら、もしかして。


彼女の繋がりなら、何か手がかりが見つかるかもしれない。


(天音さんに相談してみよう……)


遥は、静かに決意を固めた。



---



カフェ ミルテを出た後、僕はゆっくりとすばな通りを歩いていた。


特に目的があるわけじゃない。


ただ、自然と足が向いていた。


(……本当に、偶然だろうか)


心の中でそう思いながら、路上の一角に目を向ける。


小さなホワイトボードに描かれた、勿忘草のイラスト。


そして、その横に書かれた『天音』という文字。


彼女は、今日もギターを抱え、静かに歌っていた。


遥は、歩みを止める。


(……やっぱり、この人しかいない)


遥は、そっと近づき、演奏が一区切りつくのを待った。


「こんにちは、天音さん」


声をかけると、天音はゆっくりと顔を上げ、ふわりと微笑んだ。


「あら、遥くん。今日はお散歩?」


遥は、軽く息を整えながら、彼女の前に腰を落とす。


「ええ……でも、ちょっと相談があって」


天音は、ギターの弦を軽くなぞりながら、小さく首を傾げる。


「相談?」


「楽譜を探しているんです」


「楽譜?」


「絶版のものなんです。ベートーヴェンの『悲愴』。琴音さんの母親が使っていた版と同じものを」


遥の言葉に、天音はゆっくりと瞬きをした。


そして、小さく唇に指を添え、考え込む。


「……なるほどね」


天音は、弦を軽く鳴らすと、ぽつりと呟いた。


「でも、なんで?」


「……琴音さんに、贈りたいんです」


天音の指が、止まった。


彼女は、じっと遥の顔を見つめた。


そして、ふわりと笑う。


「……いいね」


「え?」


「そういうの、素敵だと思う」


遥は、少し照れくさそうに視線を逸らした。


「それで、天音さん。音楽関係の知り合いとか、そういうつてって……」


「あるよ」


即答だった。


遥が驚いた顔をすると、天音は楽しそうに笑った。


「楽譜を探すくらいなら、心当たりはある。音楽の仕事をしてる友達もいるし、もしかしたら、手に入るかもしれない」


「本当ですか?」


天音は、指先で軽くリズムをとりながら、遥を見つめた。


「でも……」


「でも?」


「遥くん自身は、どうなの?」


「……僕が?」


「うん。遥くんは、琴音ちゃんに“弾いてほしい”って思ってるの?」


遥は、一瞬言葉を失う。


「それとも、“彼女のため”に探してるだけ?」


彼女の問いは、軽やかだった。


けれど、その視線は、まるで遥の奥の奥まで見透かすようだった。


遥は、ゆっくりと息を吐いた。


そして、静かに答えた。


「……琴音さんの音を、聴きたいと思っています」


天音は、しばらく彼を見つめ、それからふっと微笑んだ。


「なら、大丈夫」


彼女は、ギターを爪弾きながら、軽やかに言った。


「きっと、その楽譜も“音”に呼ばれるよ」


遥は、その言葉の意味を理解しながら、静かに頷いた。


天音の音が、潮風に乗って、江の島の空に溶けていった。


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