表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/69

失われた道、残された旋律

夜のカフェ ミルテ。


営業が落ち着き、カウンターの片付けを終えた頃だった。


琴音は、カップを磨きながら、静かに息を吐いた。


「……潮見さん」


「はい?」


「あなたは、もし違う道を選んでいたら、今とは違う生き方をしていたと思いますか?」


唐突な問いだった。


遥は、少しだけ考えてから答える。


「……たぶん、していたと思います。でも、それが良かったかどうかは、わかりません」


「そう、ですね」


琴音は、微かに微笑んだ。


「私も、もし音大に行っていたら、今とは違う人生を歩んでいたかもしれません」


遥は、一瞬だけ驚いた。


(……琴音さん、音大を考えていたのか)


「行こうとしてたんですか?」


「……考えてはいました。でも、両親が亡くなったとき、店を継ぐと決めました」


彼女の声は静かで、感情を抑えていた。


「後悔は、していません」


そう言いながらも、その言葉の奥には、どこか小さな迷いが滲んでいるように感じた。


「……本当に?」


思わず、遥は尋ねた。


琴音は、カウンターに目を落としながら、ゆっくりと続ける。


「母が生きていた頃、私はいつか『悲愴』を弾くと言っていました」


「……ベートーヴェンの?」


琴音は頷く。


「母に贈りたかった曲でした。でも、その機会はなくなってしまった」


彼女の指が、そっとカウンターをなぞる。


まるで鍵盤を思い出すように。


「母は、シューマンの『ミルテの花』が好きでした。それが、店の名前の由来にもなっています」


遥は、その言葉を反芻する。


(琴音さんは、『悲愴』を母に贈りたかった……)


でも、その願いは叶わなかった。


それなら——


(遥に、できることは……)


琴音が磨いていたカップを静かに置く。


「でも、弾く機会は……まだあるんじゃないですか?」


琴音は、驚いたように俺を見た。


遥は、静かに続ける。


「もう母親に贈ることはできなくても、琴音さんが弾きたいと思うなら、弾いていいんじゃないですか?」


彼女は、一瞬だけ戸惑った表情を見せる。


そして、そっと微笑んだ。


「……そう、かもしれませんね」


その微笑みは、どこか遠い記憶を懐かしむようなものだった。


(僕が、できることは……)


遥は、胸の奥で、静かに決意を固めた。

誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。

もし気に入っていただけたら、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ