再び
新エピソード『[間章] 遠い記憶』を『旅をする理由』の下に仕込んでおきました。
物語のカギの一部ですので是非ご覧ください。
昼下がりのカフェ ミルテ。
ランチタイムの賑わいが落ち着き、店内には穏やかな静けさが戻っていた。
そのとき——
扉のベルが静かに鳴る。
「こんにちは」
低く、落ち着いた声。
遥は顔を上げて、その姿を確認する。
「霧島さん」
「また来てしまいました」
秋人は、穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと店内へと歩いてきた。
「いらっしゃいませ」
琴音も、静かに声をかける。
秋人は以前と同じ壁際の席に腰を下ろし、店内をゆっくりと見回した。
「やっぱり、いい店ですね」
彼の視線が、ふとカフェの奥へと向かう。
そこには——
古びたアップライトピアノ。
遥は、彼の目の動きに気づきながらも、黙って見ていた。
琴音もまた、その視線を感じ取ったのか、ほんのわずかに表情を曇らせる。
秋人は、それ以上は何も言わず、静かにコーヒーを頼んだ。
---
「この前のお話の続きですが……」
遥がコーヒーを運ぶと、秋人はふっと微笑んだ。
「潮見さんの"帰る場所"は、見つかりましたか?」
遥は、一瞬言葉に詰まる。
「……まだ、わかりません」
「そうですか」
秋人は、カップに手を伸ばしながら続けた。
「でも、ここにいる理由は、前よりはっきりしてきたんじゃないですか?」
遥は、カウンターの向こうにいる琴音をちらりと見た。
彼女は、黙って仕事をしている。
……たしかに。
「……前よりは、そうかもしれません」
秋人は、何かを悟ったように、目を細める。
「人はね、大切なもののそばにいたいと思うものです」
遥は、彼の言葉を反芻した。
(大切なもの……)
「"帰る場所"は、それを見つけたときに自然とわかるものですよ」
秋人は、そう言いながら、ふとカウンターの奥を見た。
「そういえば、琴音さん」
琴音が、少し驚いたように顔を上げる。
「あなたのピアノ、お母さんもよく弾かれていたんですよね」
その一言に、琴音の手が一瞬止まる。
遥も、思わず秋人を見た。
(……どうして、秋人さんはそんなことを?)
琴音は、静かにカップを拭きながら答えた。
「……ええ。母は、よく弾いていました」
秋人は、淡く微笑みながら、ゆっくりとカップを傾けた。
「シューマン、好きでしたよね?」
琴音の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「どうして、それを?」
秋人は、静かに目を伏せた。
「……以前、誰かがそんな話をしていたのを聞いたことがあって」
彼は、それ以上は何も言わなかった。
遥は、そのやりとりを見ながら、静かに考えていた。
(秋人さんは……琴音さんの母親のことを知っている?)
(それとも、ただの偶然……?)
けれど、確かなのは——
この会話が、琴音にとって小さくても意味のあるものだったということ。
彼女は、ほんのわずかに目を伏せたまま、カウンターに視線を落としていた。
カフェ ミルテの午後、空気はどこか穏やかで、それでいて少し張り詰めていた。
琴音は、秋人の言葉を受けて、静かに目を伏せる。
「……どうして、母のことを?」
秋人は、カップを手にしながら、ゆっくりと微笑んだ。
「昔、この店で、少しだけ話を聞いたことがあって」
その言葉は、どこか曖昧だった。
「誰から?」
琴音の問いに、秋人は答えなかった。
「ここは、いい店ですね」
まるで話題を逸らすように、彼は店内を見回した。
琴音は、それ以上は詮索しなかった。
ただ、彼の言葉の端々が、どこか琴音の記憶を揺らしているように見えた。
遥は、カウンター越しにその様子を見つめていた。
(秋人さん……この店に、何か関わりがあるのか?)
秋人の言葉の意図を探ろうとするが、彼の表情は静かで、何も語らないままだった。
琴音は、カップを拭きながら、小さく息を吐く。
「……母は、ピアノが好きでした」
秋人は、それを聞いても何も言わなかった。
ただ、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
琴音の指が、カウンターの木目をそっとなぞる。
その動きが、まるで鍵盤をなぞるように見えた。
(琴音さん……)
遥は、琴音の仕草を見ながら、彼女の心の中にある何かを感じ取ろうとしていた。
彼女が、過去に向き合う時は近いのかもしれない——。
--
秋人が店を去った後も、琴音はどこか考え込んでいた。
カウンター越しに、その横顔を見つめる。
「琴音さん」
呼びかけると、琴音は微かに瞬きをして、こちらを見た。
「……はい?」
「秋人さんの話、気になっていますか?」
琴音は、一瞬だけ目を伏せた。
「……少し」
その返事に、俺は静かに頷いた。
「俺でよければ、聞きますよ」
琴音は、驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐにその瞳は柔らかく揺れる。
「……ありがとうございます」
彼女は、一瞬だけ迷うような素振りを見せた後、小さく息を吐いた。
「……母は、この店でよくピアノを弾いていました」
遥は、その言葉を静かに受け止める。
「小さい頃、母がピアノを弾くのを聞くのが好きでした。たまに、一緒に連弾をしたり……」
彼女の声は、どこか懐かしさを帯びていた。
「母の弾く音は、優しくて、でも力強くて……私にとって、一番好きな音でした」
そう言いながら、琴音の指先が、カウンターの木目をなぞる。
まるで鍵盤を思い出すかのように。
「でも……両親が亡くなってからは、弾かなくなりました」
その言葉には、どこか静かな寂しさが滲んでいた。
遥は、琴音がそっと自分の過去を話してくれることに、どこか安堵していた。
(少しずつ……琴音さんが、自分の気持ちと向き合おうとしている)
「それでも、ピアノはここにあるんですね」
遥がそう言うと、琴音は小さく微笑んだ。
「……ええ」
彼女の言葉の端々に、まだ迷いはある。
でも、確かに「何か」が変わり始めている。
遥は、琴音の手元に視線を落としながら、静かに思った。
(琴音さんが、またピアノに向き合う日が来るのだろうか)
(……そのとき、僕は、どんな気持ちでそれを見ているんだろう)
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夜のカフェ ミルテ。
営業が終わり、静まり返った店内には、わずかな余韻だけが残っていた。
琴音はカウンターの片付けを終え、ふと奥に視線を向ける。
そこには、古びたアップライトピアノ。
(……また、弾く日が来るのだろうか)
秋人の言葉、遥の問いかけ。
それらが心のどこかに残り、微かに揺らめいている。
気づけば、ゆっくりと歩み寄っていた。
ピアノの前に立つ。
そっと、蓋に指をかける。
軽く押せば、鍵盤が現れる。
——でも、琴音は動かなかった。
開けることすら、少し怖い気がした。
それでも、ほんのわずかに指を伸ばす。
鍵盤の、冷たく滑らかな感触。
(……私、まだ……)
琴音は、そっと手を引く。
「弾きたい」のか、「弾いてはいけない」のか。
その答えは、まだ出ない。
でも、確かに——
「またピアノを弾くかもしれない」という考えが、生まれ始めていた。
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