ほんの少しの甘さを
昨日、同じ名前でアップロードしてましたが、納得いかないのでプロットを再編して書き直しました。
潮風が頬を撫でる。
江の島駅の改札を抜けた瞬間、ふわりと広がる海の香りに、僕、潮見 遥は小さく息をついた。
都会の喧騒とは違う、ゆるやかな空気。駅前の通りを歩く観光客のざわめきが遠く聞こえ、まるで時間の流れまで変わってしまったような気がする。
ここに来たのは、ただの思いつきだった。
あのまま都会で働いていたら、遥は何をしていたんだろう。
毎日詰め込まれたスケジュールをこなし、上司と部下の板挟みに疲れ、週末は無理やり遊ぶことで気を紛らわせる……。
そんな日々に嫌気が差し、ふと訪れたこの場所の景色に心を奪われた。
それが、遥がここに来た理由。
深く考えたわけじゃない。ただ、この場所で何かを見つけられるような気がした。
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アパートに荷物を置き、何となく歩いていると、賑やかな通りを一本外れた先に、小さなカフェがあった。
「Café Myrte」
看板に刻まれたその文字は、どこか柔らかく、静かな余韻を残していた。
「珈琲と、ほんの少しの幸せを。」
手書きの文字が添えられた木の看板が、そよ風に揺れる。
古びたドアに手をかけると、チリン、と控えめな鈴の音が鳴った。
店内に広がるのは、コーヒーの香りと、心地よい静けさ。
カウンターの奥、淡い光に照らされる女性が、一瞬こちらを見た。
黒髪のショートカットの女性がすっと揃えられている。
「いらっしゃいませ」
淡々とした声。それでいて、どこか静かな温もりがあった。
「ご注文は?」
メニューを手に取りながら、ふと考える。
店の雰囲気に合うものを、となんとなく思いながら、視線を滑らせると、シンプルなメニューの文字が目に入った。
「ブレンドでお願いします」
「かしこまりました」
店長らしき女性はすっとメモを取り、無駄のない動作でカウンターの奥へと向かった。
やがて、コーヒー豆を挽く静かな音が響く。
ザラリ、ザラリと、手挽きミルの音が店の静寂に溶け込んでいく。
やがて、ゆっくりと湯を注ぐ音が加わる。
細く、ゆるやかな動き。無駄のない所作。
その動きを見つめながら、ふと、昔どこかで似たような光景を見た気がした。
思い出せないまま、目の前にコーヒーが置かれる。
「どうぞ」
小さく湯気を立てるカップを前に、俺は軽く頷いた。
「いただきます」
ゆっくりと口をつけると、柔らかく、それでいて芯のある苦味が広がった。
ふと、目の前の彼女を見る。
「この店、長くやってるんですか?」
彼女は少し考えるように目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「ええ。……かなり昔からですね」
言葉を選ぶように、ゆっくりとした口調だった。
「もともとは、家族が始めた店なんです。私は、それを引き継いだだけで」
「そうなんですね」
カップを持ち上げながら、店内を見回す。
木の温もりが感じられるテーブルと椅子。壁には、少し色褪せたモノクロ写真や、どこかで見たことのあるレトロなポスターが飾られている。
派手な装飾はないが、静かで落ち着く空間だった。
「昔からの常連さんとかも、いそうですね」
遥の言葉に、彼女はほんのわずかに微笑んだ。
「ええ。ずっと通ってくれているお客さんもいます」
「例えば?」
「……漁師の菊池さんとか」
「漁師?」
「ええ。ちょっと強面ですけど、話すと気さくな人ですよ。よくこの店でコーヒーを飲んで、ぼそっと昔話をしていきます」
彼女の語り口は淡々としているが、どこか親しみがあった。
「そういう常連がいるって、いいですね」
「……そうですね。たぶん、この店が長く続いている理由のひとつです」
遥は再びカップを傾ける。苦味とともに、ほのかに甘さを感じる後味。
「このコーヒー、美味しいです」
彼女は少しだけ驚いたように、でもどこか安心したように目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「店長さんは、コーヒーが好きなんですか?」
遥が尋ねると、彼女は少しだけ考えるように目を伏せた。
「……好きかどうか、と聞かれると、少し難しいですね」
「難しい?」
「コーヒーは、私にとって"当たり前"のものなんです」
カウンターの奥、彼女はゆっくりと手元のカップをなぞる。
「小さい頃から、店の奥でコーヒーの香りがしていました。朝起きると、カウンターの向こうで誰かが豆を挽いていて、お湯を注ぐ音が聞こえて……それが日常でした」
静かに紡がれる言葉。
「だから、"好き"というより……そこにあるのが、当然のもの、という感覚のほうが近いかもしれません」
彼女はふっと小さく息をつき、俺を見た。
「でも、美味しいと言ってもらえるのは、嬉しいです」
その言葉には、ほんの少しの柔らかさがあった。
「じゃあ、店を継いだのも、"当たり前"だったんですか?」
そう尋ねると、彼女の指がカウンターの縁をなぞる。
「……さあ、どうでしょうね」
一瞬、言葉を探すような間。
けれど、それ以上は言わず、彼女は小さく微笑んだ。
黒髪のショートカットは隙なく整えられ、深いダークブラウンの瞳は静かに揺れている。
「おかわり、いりますか?」
わずかに伏せられた睫毛の影が、カップに落ちる。
遥は、空になったカップを見下ろし、静かに頷いた。
「じゃあ、店長さんが一番好きなコーヒーは?」
おかわりを頼みながら、軽く尋ねると、琴音は少し考えるように視線を落とした。
「……うーん、そうですね」
ミルを手に取りながら、ゆっくりと答える。
「エスプレッソ、でしょうか」
「エスプレッソ?」
意外な答えに、俺は少し驚く。
「濃くて苦いし、量も少ない。正直、あまり飲みやすいものじゃないと思うんですけど」
「そうですね。だからこそ、好きなんです」
彼女の指が、ゆっくりと豆を挽く。
「エスプレッソは、一瞬で淹れられるけれど、その味にはすべてが詰まっています」
豆の種類、焙煎、挽き具合、抽出の温度や圧力――すべてが小さなカップに凝縮されている。
「シンプルに見えて、奥が深い。そういうところが、いいなと思います」
彼女の言葉には、静かな確信があった。
「それに……そのままでは苦いけれど、ほんの少しだけ砂糖を入れると、驚くほど甘くなるんです」
そう言って、ふっと微笑む。
「ほんの少しの違いで、味が変わる。それが面白いな、と思います」
遥は、その言葉を聞きながら、彼女の横顔を眺めた。
まるで、そのエスプレッソの話は――彼女自身のことを語っているような気がした。
「……そういうの、なんだかいいですね」
遥は静かにそう呟いた。
エスプレッソは、苦くて強い。
でも、ほんの少しの甘さを加えるだけで、全く違った表情を見せる。
「じゃあ、俺もエスプレッソを頼んでみようかな」
そう言うと、琴音は軽く瞬きをして、微かに微笑んだ。
「そうですか」
彼女の指が、再びミルのハンドルを回す。
先ほどよりも細かく挽かれた粉が、ゆっくりとフィルターへ落ちていく。
その所作は、どこか儀式のように丁寧だった。
エスプレッソマシンが、小さく唸る音を立てる。
極細の粉の上を熱い蒸気が通り抜け、短い時間の中で抽出される。
カウンターの向こう、淡い光の中でコーヒーを淹れる彼女の横顔は、どこか静かで、触れたら壊れてしまいそうな儚さがあった。
「どうぞ」
差し出されたカップは、小さく、漆黒の液体をたたえていた。
遥はそっと口をつける。
――苦い。
けれど、それはただの苦さじゃなかった。
どこか奥行きがあり、舌の上でじんわりと広がる。
「どうですか?」
彼女が、カウンター越しにこちらを見る。
遥は、ゆっくりとカップを置きながら、率直な感想を口にした。
「正直、めちゃくちゃ苦いです」
彼女は少し目を瞬かせた後、口元にわずかな微笑みを浮かべた。
「でしょうね」
その淡々とした言葉には、どこかくすぐるような響きがあった。
遥は、カップの中の漆黒の液体を見つめる。
苦い。けれど、その奥には何かがある。
――「そのままでは苦いけれど、ほんの少しだけ砂糖を入れると、驚くほど甘くなるんです」
彼女の言葉がふっと頭をよぎる。
試しに、カウンターの隅に置かれた角砂糖をひとつ、カップの中へ落としてみた。
小さく波紋が広がり、エスプレッソにゆっくりと溶けていく。
スプーンで軽くかき混ぜ、もう一度口をつけた。
――変わった。
苦さの奥に、ふっと広がる丸みのある甘さ。
ただの苦味だった液体が、一瞬で違うものに変わった気がした。
「……不思議ですね」
遥は小さく呟く。
彼女が、ほんのわずかに目を細めた。
「でしょう?」
さっきと同じ言葉なのに、少しだけ柔らかく聞こえた。
遥は、もう一度カップを口に運ぶ。
ほんの少し甘くなったエスプレッソの味を確かめるように。
「エスプレッソ、ちょっと好きになったかもしれません」
遥がそう言うと、彼女はわずかに目を見開いた。
「……そうですか」
彼女の指が、カウンターの縁をなぞる。
「苦いだけじゃないんですね」
遥はカップの中を覗き込みながら呟いた。
「最初は驚いたけど、砂糖を少し入れるだけで、まったく違う味になるなんて思わなかった」
「ええ」
彼女はカウンターの向こうで、小さく頷く。
「だから、面白いんです」
彼女の声には、どこか満足げな響きがあった。
遥はふっと息をついて、もう一度エスプレッソを口に運ぶ。
今度は、苦さの向こうにある甘さを、ゆっくりと味わうように。
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カフェの扉が開く音がした。
「よう、店長! 今日は暑いな!」
聞きなれない声とともに、カウンターに近づいてくる影がある。
見るからに海の男といった風貌の、浅黒い肌の老人が、どっかりと椅子に腰を下ろした。
「……菊池さん、こんにちは」
彼女がいつもと変わらないであろう調子で声をかける。
遥はふと、さっき聞いた名前を思い出した。
(もしかして……この人が、あの漁師の常連?)
「……店長、やっぱり常連さんに慕われてるんですね」
遥がそう言うと、琴音は少し驚いたようにまばたきをした。
「慕われている、というほどのことでは……」
「いや、そんなことないだろ」
隣で聞いていた菊池さんが、ドンとカウンターに手を置いた。
「この店があるから、俺は毎日こうして生きてられるんだ」
「そんな大げさな……」
彼女は困ったように目を伏せる。
「大げさかどうかは関係ないさ。事実だからな」
菊池さんは、遥の方を見て笑った。
「店長のコーヒーは、気づけば飲みたくなる味なんだよ。俺みたいな年寄りには、こういう場所がありがたいんだ」
「……ありがとうございます」
彼女の声は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
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エスプレッソの苦味が、舌の上にほんのり残っている。
「この店があるから」
そう言った菊池さんの言葉が、ふと頭に残った。
(僕にとって、この場所はどんな意味を持つんだろう)
まだ答えは出ない。
でも、こうしてコーヒーを飲んで、誰かと話して、何気ない時間を過ごすことが、今はただ心地よかった。
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カウンターの奥で、彼女がまた一杯のコーヒーを淹れる。
その手つきは、どこまでも静かで、どこまでも美しかった。
遥は、もう一口、エスプレッソを飲んだ。
ほんの少し甘くなった、その味を確かめるように。
遥の一人称、地の文を「僕」から「遥」に変えました。会話文は「俺」です。カッコ内は「僕」。
彼の繊細さを生かす為のちょっとした微調整です。
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