些細な仕草、揺れる意識
夜のカフェ ミルテ。
閉店準備をしながら、遥はふと琴音の動きを目で追っていた。
カウンターの向こう側。
彼女は、コーヒーカップを片付けながら、ふと指先で髪を耳にかける。
その仕草が、妙に印象に残った。
(……こんな動作、前から気になっていたか?)
いや、そんなはずはない。
彼女はずっと同じように、このカフェを守るように働いている。
でも、最近。
カフェ ミルテの夕暮れ。
西日が静かに差し込み、店内に淡いオレンジの光が広がる。
昼の喧騒が過ぎ、常連客たちも帰り、今の店の中は静かだった。
遥はカウンターの中で、グラスを拭きながら琴音をちらりと見る。
彼女は、いつもと同じように仕事をしている。
丁寧な手つきでコーヒーカップを片付け、無駄のない動きで店を整える。
けれど、遥は気づいていた。
(少しだけ、柔らかくなった気がする)
秋人の言葉が、まだ心の中に残っている。
「"居場所"は、最初から決まっているものじゃない。人と出会って、時間を重ねて、初めてわかることもある」
——僕は、琴音さんと、この時間を過ごすことが心地いい。
それが「特別な気持ち」なのかどうかは、まだはっきりとはわからない。
でも、彼女の動きや、彼女の言葉のひとつひとつに、遥の心が少しずつ引かれていることは確かだった。
「潮見さん」
琴音がふと、遥の名前を呼んだ。
「はい?」
「今日のコーヒー、淹れてみますか?」
遥は、意外な申し出に少し驚く。
「……いいんですか?」
琴音は、静かに頷いた。
「ええ。そろそろ、一度試してみてもいい頃かと」
遥はカウンター越しに彼女を見つめる。
どこか、柔らかい空気をまとった琴音の表情。
「じゃあ、お願いします」
遥は、慎重に道具を手に取り、ゆっくりとコーヒーを淹れ始めた。
---
お湯を注ぐ。
細く、静かに、円を描くように。
蒸らして、香りを立たせ、じっくりと抽出していく。
この時間が、好きだと思った。
この場所で、コーヒーを淹れることが。
「……」
琴音が、じっと俺の動きを見ている。
「琴音さん?」
「……いいえ。少し、見惚れていました」
「え?」
琴音は、微かに微笑む。
「潮見さんの手の動きが、思っていたよりも柔らかくて、丁寧だったので」
遥は、不意に視線を外す。
(……そんな風に言われると、なんだか照れる)
コーヒーが落ちる音が、静かに響く。
「……なんだか、不思議ですね」
琴音が、小さく呟く。
「何がです?」
「最初は、ここに新しい人が入るなんて思いませんでした。でも、今は……」
彼女は、少しだけ言葉を選んだ後、静かに微笑んだ。
「潮見さんがいるのが、自然に感じます」
遥の心が、一瞬揺れる。
「……それは、よかったです」
そう言いながら、遥は気づいていた。
彼女の言葉が、遥の中で思った以上に大きく響いていることに。
(僕は……この場所にいることを、心地いいと思っている)
でも、それは「この店が好きだから」なのか——それとも。
遥は、そっと琴音の横顔を見つめた。
西日の中で、彼女の黒髪が柔らかく光っていた。
は、彼女の何気ない動きや表情に、つい目がいくことが増えた。
例えば——
考え込むときの、微かに伏せられた瞳。
驚いたときに、ほんのわずかに開く口元。
コーヒーを淹れるときの、丁寧な指の動き。
それらが、なぜか俺の中に、やけに強く残るようになった。
(……なんでこんなことを考えているんだろう)
彼女は、店のオーナーであり、俺はここで働いているだけ。
でも——
「……潮見さん?」
琴音の声に、俺はハッとして顔を上げた。
「え?」
「どうかしましたか?」
彼女は、僕をじっと見つめていた。
遥は、何かを言いかけて、誤魔化すように小さく笑う。
「いや、何でもないです」
琴音は、ほんの少しだけ不思議そうな顔をした。
遥は、その表情すらも、気になっている自分に気づいた。
(……僕は、一体何を考えてるんだ?)
けれど、その疑問の答えはまだ、言葉にならなかった。
誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。
もし気に入っていただけたら、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!




