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[間章] 遠い記憶

秋人視点、過去回想

静かな夜だった。


舞台の照明が落ち、グランドピアノの前に座る女性の姿が、静寂の中に浮かび上がる。


彼女の指が鍵盤に触れると、空気が震えた。


静かに、けれど確かに、響いていく音。


秋人は、舞台袖からその音を聞いていた。


彼がこのツアーの裏方として関わるようになったのは、ほんの偶然だった。


ただの手伝い。

ただの旅の途中。


それでも、彼女の奏でる音は、なぜか心に残った。


コンサートの休憩時間。


彼女はカップに手を添えながら、ふと微笑んだ。


「音楽って、不思議ですね」


秋人は、湯気の立つコーヒーを眺めながら、ゆっくりと言葉を探した。


「そうですね……何も言わなくても、伝わるものがある」


「ええ。でも、何も言わないからこそ、届かないこともあるんです」


彼女は、遠くを見るような眼差しをした。


「藤沢に、小さなカフェがあるんです。ミルテという名前の」


秋人は、その名を繰り返すように、静かに口の中で転がした。


「ミルテ……」


「娘がいます。小さい頃は、よく私と一緒にピアノを弾いていました」


カップを持つ彼女の指先が、わずかに揺れた。


「今は?」


「ええ……今は、まだ弾いています。でも……」


秋人は、その言葉の先を待った。


「彼女が、このままピアノを続けるかはわかりません」


「……なぜ?」


彼女は、ふっと笑った。


「娘はとても優しい子なんです。だからこそ、選べないこともある」


「選べない……?」


「ええ。音楽を続けるのか、それとも……家を継ぐのか」


秋人は、彼女の言葉の裏に、何か含みのある響きを感じた。


彼女は、指先でカップの縁をなぞるようにしながら、小さく呟くように言った。


「そういえば……楽譜、いつも同じものを使っているんです」


秋人は、カップから顔を上げた。


「同じもの?」


「ええ。シューマンの『ミルテの花』と、ベートーヴェンの『悲愴』……

 どちらも、ずっと同じ版を使い続けています」


「それは……なぜ?」


彼女は、少しだけ目を伏せて微笑んだ。


「音が馴染むんです。新しい楽譜を使えば、新しい解釈ができるかもしれない。

 でも、私はずっと、この楽譜と一緒に生きてきました」


秋人は、その言葉の意味を考えながら、静かに頷いた。


(誰かの心に残る音)


彼女は、そう言っていた。


(誰かの心に残るなら……それはきっと、意味のあるものなんだろう)


再び幕が上がる。


彼女の指が鍵盤に触れ、音が生まれる。


秋人は、舞台袖で目を閉じた。


その音は、静かで、優しく、けれどどこか強い響きを持っていた。


遠い記憶の中、その音は、確かに響いていた。



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