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旅をする理由

昼下がりのカフェ ミルテ。


穏やかな空気が流れ、常連客たちが思い思いに時間を過ごしていた。


そんな中、扉が静かに開いた。


「……」


目の前に立っていたのは、ひとりの男だった。


三十代前半くらいの、落ち着いた雰囲気を持つ男性。


黒のシンプルなジャケットに、くたっとしたトートバッグ。

どこか旅人のような、漂う空気をまとっている。


「いらっしゃいませ」


琴音が静かに声をかけると、男はゆっくりと視線を上げた。


「……静かでいいですね」


低く穏やかな声だった。


「この店は、昔からあるんですか?」


「ええ、もう随分と」


琴音が答えると、男は微かに頷く。


「なるほど」


彼は店内を見渡し、壁際の席へと歩いていく。


遥は、彼をじっと観察していた。


(この人……なんだか、不思議な雰囲気があるな)


常連でもない。観光客のようにも見えない。


でも、どこか「ここに馴染んでいる」感じがする。


しばらくして、琴音がコーヒーを運ぶと、男はふっと笑った。


「いい香りですね」


「ありがとうございます」


「おすすめを頼んでみましたが、どんな豆を使っているんですか?」


琴音は、少し考えながら静かに答えた。


「今日はエチオピアの豆です。華やかさとフルーティな甘さが特徴で……」


遥は、興味深そうに聞きながら、ゆっくりとカップを傾けた。


そして、しばらく味わった後——


「……いいですね」


短く、それだけを呟いた。


遥は、その一言にどこか引っかかるものを感じた。


(この人、何者なんだろう……?)


琴音が去った後、俺は思い切って声をかけた。


「初めて来られたんですか?」


遥はカップを置き、穏やかな笑みを浮かべた。


「ええ。ふらっと立ち寄っただけですが、いい店ですね」


「ありがとうございます。……よく旅をされるんですか?」


「……そうですね」


遥は、どこか遠くを見るような目をした。


「私は、旅をしながら物を書く仕事をしていまして」


「物を書く……?」


彼は、ふっと笑った。


「小説を書いています」


遥は、一瞬驚いた。


(小説家……?)


「霧島 秋人です」


男——霧島 秋人 は、落ち着いた口調で名乗った。


僕も、軽く会釈する。


「潮見 遥です」


「潮見さん」


秋人は、僕の名前をゆっくりと繰り返した。


「あなたは、この店の人ですか?」


「ええ、最近働き始めました」


「なるほど」


秋人は、カップを持ち上げながら、静かに言った。


「ここは……いいですね。落ち着く」


遥は、秋人の言葉の端々から、何かを探しているような雰囲気を感じた。


(この人も、何かを求めて旅をしているんだろうか……)


秋人は、しばらくコーヒーを味わった後、ぽつりと呟いた。


「……この店には、ピアノがあるんですね」


僕の意識が、ふと研ぎ澄まされる。


秋人の視線の先には、店の奥のアップライトピアノ。


彼は、それをしばらく眺めた後、静かに尋ねた。


「誰か、弾くんですか?」


僕は、一瞬だけ琴音の方を見る。


そして、迷いながらも答えた。


「……今は、誰も」


秋人は、それ以上何も言わず、ただ微かに微笑んだ。


彼の瞳が、一瞬だけ何かを思い出すように揺れたのを、俺は見逃さなかった——。


秋人の視線が、カフェの奥のピアノを捉えたまま、ふと宙にほどける。


「……誰も弾かないんですね」


彼の言葉には、どこか確信めいた響きがあった。


「ええ。もう、長いこと」


僕がそう答えると、秋人はゆっくりと微笑んだ。


「変わらないものもある。でも、変わるものの方が多い……か」


まるで独り言のように呟く彼の言葉が、妙に胸に残った。


僕は、秋人に興味を覚え始めていた。


彼は何者なのか。

なぜ、この店にふらりと立ち寄ったのか。


「……霧島さんは、どうして旅をしてるんですか?」


僕は、素直に問いかけた。


秋人は、驚いた様子もなく、少しだけ笑った。


「どうして、か」


「ええ」


「潮見さんは、どうしてここに?」


思いがけない問い返しだった。


遥は少し言葉に詰まりながら、正直に答える。


「……仕事を辞めて、ここに来ました」


「なるほど」


秋人は、コーヒーをひと口含み、ゆっくりと味わった。


「この街が、特別だった?」


遥は、少し考えてから頷く。


「……はい。ふと訪れたときに、なんというか、ここでならやり直せる気がして」


秋人は、穏やかな眼差しで俺を見た。


「"ここでならやり直せる"、か」


彼は、ゆっくりと言葉を選びながら、静かに語り始めた。


「僕はね、"旅"をしているというより、"居場所を見つけるために歩いている"んです」


遥は、その言葉に少し驚いた。


「居場所を……?」


「ええ」


秋人は、ゆるく笑う。


「昔は、"ひとつの場所に留まることが生きることだ"って思っていました。でも、ある時気づいたんです。"人は動くことで、自分の居場所を知る"んじゃないかって」


遥は、その言葉を飲み込んだ。


「動くことで?」


「そう」


秋人はカップを回しながら、続けた。


「同じ場所にいると、見えないものがある。でも、遠くに行くと、見えてくるものがある。今まで気づかなかったものが、大切だったとわかる瞬間がある」


遥は、静かに彼の言葉を聞いていた。


「僕は、まだ"本当の居場所"を見つけられていない。でも、"ここじゃない"と思う場所が増えるたびに、"本当に大切なもの"が少しずつ見えてくる気がするんです」


("ここじゃない"と思う場所が増えるたびに……)


遥は、自分の中にある迷いと重ねていた。


「だから、旅を続けているんですか?」


秋人は、ふっと息をつく。


「ええ。いつか"帰りたい"と思える場所を見つけるために」


遥は、黙って彼を見つめた。


(帰りたいと思える場所……)


「潮見さんは、どうですか?」


「え?」


「あなたにとって、この場所は"帰る場所"になりそうですか?」


遥は、その問いにすぐには答えられなかった。


ここは、俺が選んだ場所だ。


でも、"帰りたい"と思えるほどの場所になっているだろうか?


遥は、秋人の問いを噛みしめながら、自分自身の答えを探し始めていた——。


「潮見さんは、どうですか?」


秋人の問いが、ふとカフェの静けさに溶け込む。


「あなたにとって、この場所は"帰る場所"になりそうですか?」


遥は、その言葉の意味を反芻していた。


("帰る場所"……)


ここは遥が選んで来た場所だ。

でも、それは本当に「帰る場所」なのか?


秋人は、「人は動くことで、自分の居場所を知る」と言った。


遥は、この場所に根を張るつもりで来たのか、それともただ「逃げて」きたのか——。


ぼんやりと考えながら、遥はカウンターの奥に視線を向ける。


そこには、いつものように静かにコーヒーを淹れる琴音の姿があった。


無駄のない動き。

繊細な手の動き。


だけど、彼女は時折、ふっと遠くを見つめるような目をする。


(琴音さんにとって、この場所は……どうなんだろう)


彼女は、ここを「守る」ために残った。

でも、「帰る場所」として選んだわけじゃないのかもしれない。


「……どうなんでしょうね」


遥は、秋人の問いに曖昧な笑みを返した。


「まだ、自分でもよくわかっていない気がします」


秋人は、微かに目を細める。


「それでいいんじゃないですか?」


「え?」


「"居場所"は、最初から決まっているものじゃない。人と出会って、時間を重ねて、初めてわかることもある」


(……人と、時間を重ねて)


「だから、焦らなくていいんです。大切なのは、"今、ここにいたいと思うか"じゃないですか?」


(今、ここにいたいか——)


遥は、琴音の姿をもう一度見る。


彼女は、コーヒーを淹れ終え、カップを丁寧に拭いていた。


(僕は……この場所にいたいのか?)


それとも——


(この人と、この時間を過ごしていたいのか?)


まだ、はっきりと答えは出ない。


でも、胸の奥に、何かが芽生え始めている気がした。


秋人、ミステリアスな男なんです。

余談ですが、彼のフォーマルな一人称は「私」、普通の会話の一人称は「僕」としています。



誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。


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