消えない音
カフェ ミルテの扉が、ゆっくりと開いた。
昼下がりの店内。
今日は比較的静かで、常連客たちが思い思いにコーヒーを楽しんでいる。
そんな中、ふと目を向けると——
「こんにちは~」
軽やかな声とともに、黒髪をふわりと揺らしながら、天音がカフェに入ってきた。
ギターケースを背負い、どこか旅人のような雰囲気をまとっている。
遥は、少し驚いた。
「天音さん?」
「あ、覚えててくれたんだ」
天音はにこっと笑い、カウンターに近づく。
「ここ、ピアノあるんだよね?」
その言葉に、琴音の手がぴたりと止まった。
遥は、琴音の横顔を見る。
彼女の表情は、ほんの一瞬だけ硬くなった。
「……ええ。あります」
天音は、カフェの奥を見渡し、古びたアップライトピアノを見つける。
「わぁ、素敵。ずっとここに置いてあるの?」
琴音は、静かに頷く。
「はい。お店ができた頃から……ずっと」
天音は、ふむ、と小さく唇を噛みながらピアノへと歩み寄った。
そして、そっと鍵盤に指を置く。
——ポン。
小さく響いた音に、琴音の肩がわずかに揺れる。
天音は、ふっと微笑んだ。
「いい音。ちょっと調律は必要そうだけどね」
琴音は、何も言わなかった。
遥は、カウンター越しにそのやり取りを見ていた。
(琴音さん……)
天音は、琴音の方に向き直り、楽しげに言った。
「ねぇ、今度ここで弾いてもいい?」
琴音の瞳が、かすかに揺れる。
「……それは」
「ダメ?」
「いえ……そういうわけでは」
琴音は、言葉を詰まらせる。
遥は、琴音の迷いを感じ取った。
(たぶん、琴音さん自身が「このピアノを誰かが弾くこと」にどう向き合えばいいのか、わかっていないんだ)
天音は、琴音をじっと見つめた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「……でも、音は消えないよ」
その言葉に、琴音の指がわずかに震えた。
「どんなに長い間弾いてなくても、手は音を覚えてる」
琴音は、視線を落としたまま、何も言わなかった。
遥は、琴音の手元を見つめる。
(琴音さん、本当は……)
——本当は、まだ弾きたいと思っているんじゃないか?
それとも、もう弾かないと決めているのか?
その答えは、琴音の中にしかない。
遥は、彼女がこのピアノとどう向き合うのか、もう少し見守るべきなのかもしれない。
天音は、そんな琴音の様子を見て、ふっと微笑んだ。
「いつか、弾いてみたくなったらさ。そのときは、聴かせてよ」
琴音は、微かにまばたきをする。
そして、静かに——でもどこか不安げに、頷いた。
天音が去った後のカフェ ミルテには、どこか不思議な余韻が残っていた。
琴音は何も言わず、ただカウンターに立ち、コーヒーを淹れている。
遥は、その横顔をそっと見つめた。
(琴音さん……)
彼女の指先が、カウンターの木目をゆっくりと辿る。
まるで、鍵盤をなぞるかのように——。
意識していないのかもしれない。
でも、確かに「何か」を思い出している仕草だった。
「琴音さん」
遥が声をかけると、琴音はふっと顔を上げた。
「……はい?」
「さっきのこと、気になってますか?」
琴音は、一瞬目を瞬かせる。
「さっきの……?」
「天音さんのことです」
彼女は、ゆっくりとカップを拭きながら、静かに答えた。
「……彼女の言葉が、少しだけ」
「少しだけ?」
「……考えさせられました」
遥は、琴音の表情を探る。
彼女はいつもと変わらないように見えるけれど、どこか目の奥が揺らいでいた。
(やっぱり……)
「音は消えない、か」
遥が呟くと、琴音は微かにまばたきをする。
そして、小さく笑った。
「……そうですね」
その笑みは、どこか寂しげで、けれどほんの少しだけ柔らかかった。
琴音の中で、何かが変わり始めているのかもしれない——。
琴音の指が、カウンターの木目をゆっくりとなぞる。
まるで、鍵盤を思い出すように——。
遥は、その仕草を見ながら、ふと口を開いた。
「琴音さんが弾いたら、どんな音がするんでしょうね」
琴音の手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
「いや、なんとなく思っただけです」
遥は、あえて何気ない調子で言葉を続けた。
「琴音さんがもし、あのピアノを弾いたら……どんな音がするのかなって」
琴音は、一瞬だけ遥を見つめた。
その瞳には、驚きと、ほんの少しの戸惑いが浮かんでいる。
「……そんなこと、考えたこともありませんでした」
「そうですか?」
「ええ。もう、長い間弾いていませんし……」
彼女は、微かに目を伏せる。
遥は、その表情を見ながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……でも、ピアノはそこにありますよね」
琴音は、ふっと息を飲む。
「弾かなくなったとしても、ピアノはここにある。いつでも弾ける状態で」
「……」
「それって、琴音さんがどこかで“まだ大事にしている”ってことなんじゃないですか?」
琴音は、小さく唇を噛んだ。
遥は、それ以上は踏み込まなかった。
ただ、琴音がピアノのことを考えるきっかけになればいい。
「……私は」
琴音が何か言いかける。
けれど、その言葉は静かに消えた。
彼女は、ゆっくりと息を吐き、カウンターの奥へと視線を向ける。
遥は、彼女が何を考えているのか、言葉にはしないまま見守った。
(琴音さんが、自分の気持ちに向き合うのは、きっともう少し先かもしれない)
けれど、確かに——何かが動き始めている。
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