表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/69

忘れられた旋律

昼下がりのカフェ ミルテ。


窓の外では、陽の光がゆっくりと傾き、店内に柔らかい影を落としている。


今日は、少し珍しい客がいた。


若い母親と、その手を引かれた小さな男の子。


まだ幼稚園くらいだろうか。彼は、興味深そうに店内を見回していた。


「静かにしててね」と母親が囁く。


けれど、彼の目はある一点に釘付けだった。


カフェの奥にある、古びたアップライトピアノ。


「……ねぇ、あれ、弾いてもいい?」


子どもが無邪気に指をさし、母親が少し戸惑う。


「ごめんなさい、ピアノは——」


琴音が、静かに言葉をかけた。


「今は、調律していないんです」


子どもは「ちょうりつ?」と不思議そうに首をかしげる。


琴音は、ふっと微笑んだ。


「ピアノはね、長い間弾いていないと、音が変わってしまうんです」


「音が……?」


「うん。だから、今はちょっと、おやすみ中なんですよ」


「そっか……」


子どもは少し残念そうにしながらも、ピアノに近づくと、そっと鍵盤に手を伸ばした。


——ポン。


低い音が、店内に響いた。


一音だけ、ぽつりと鳴る。


それだけなのに、店の空気がほんの一瞬変わったように感じた。


僕は、思わず琴音を見た。


彼女は、その音を聴いた瞬間、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


「ねぇ、これ、どうやって弾くの?」


子どもが、きらきらした目で琴音を見上げる。


「ね? 先生みたいに、弾いてみせて?」


僕は、琴音の横顔をじっと見つめる。


彼女は、静かに子どもの目を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。


「……ごめんなさい」


優しく微笑みながらも、彼女の言葉は、どこか静かな拒絶だった。


子どもは「そっかぁ」と残念そうにしながらも、またピアノの鍵盤を小さくポンポンと叩いた。


その様子を見ながら、僕は心の中で考えていた。


(やっぱり……琴音さんは、ピアノを弾かないんじゃなくて、弾こうとしないんだ)


天音の「音は消えないよ」という言葉が、ふと頭をよぎる。


(本当に……そうなのか?)


彼女の手が鍵盤に触れる日が、また来ることはあるのだろうか——?


子どもがポンポンと鍵盤を叩いた音が、カフェに小さく響いた日。


その余韻を引きずるように、俺はふと琴音のことを考えていた。


「おやすみ中」。


琴音は、ピアノをそう表現した。


弾こうと思えば弾けるはずなのに、彼女は鍵盤に触れなかった。


(本当に……もう弾くつもりはないのか?)


そんなことを考えながら、僕は店のカウンターを拭いていた。


すると、向かいの席から菊池さんの低い声が聞こえてきた。


「……久しぶりに聞いたな」


「え?」


「ピアノの音だよ」


彼は、新聞を畳みながら、奥のアップライトピアノに目を向けた。


「昔は、よくあそこから音が聞こえてきたんだがなぁ」


「昔……ですか?」


「おうよ。琴音ちゃんがまだ小さい頃、よく弾いてたんだ」


僕は、一瞬息をのむ。


「琴音さんが?」


「そうさ。あの子の母親が、ピアノの先生みてぇなもんだったからな」


菊池さんは懐かしそうに目を細め、カップを手に取った。


「夕方になると、店の奥で母親と連弾してたっけな。ショパンだか、シューマンだか……俺にはよくわからねぇが」


僕は、想像してみる。


このカフェの奥で、まだ幼い琴音が母親と並んでピアノを弾いていた光景。


「……それじゃあ、昔はよく弾いてたんですね」


「そりゃあな。お袋さんが亡くなる前までは、ずっとな」


僕は、その言葉にハッとする。


(亡くなる前まで……?)


「でも、それからはピタッとやめちまった」


菊池さんは、ふっとコーヒーをすすった。


「俺ぁ、なんだかんだであの音が好きだったんだがな」


(琴音さんは、母親が亡くなってから弾かなくなった……)


そこまで考えて、僕はカウンターの奥にいる琴音を見る。


彼女は、いつもと変わらない様子でコーヒーを淹れていた。


(でも、嫌いになったわけじゃない……)


「琴音さん、ピアノが嫌いなわけじゃないと思いますか?」


僕の問いに、菊池さんは新聞をめくりながら、低く笑った。


「さてな。でも、嫌いだったらピアノなんて置いとくもんかね?」


僕は、その言葉に黙り込んだ。


(確かに……)


琴音は、「弾かない」のではなく、「弾けない」と思い込んでいるのかもしれない。


天音の言葉が、また頭の中をよぎる。


「音は消えないよ」


琴音も、心のどこかでその音を覚えているのだろうか——。

誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。


もし気に入っていただけたら、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ