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静かな鍵盤、遠い記憶

カフェ ミルテでの仕事にも少しずつ慣れ、琴音とのやり取りにも自然と余裕が生まれてきた頃。


昼下がりの店内は静かで、心地よいコーヒーの香りが漂っている。


遥は、ふとカフェの奥に目を向けた。


壁際に、古びたアップライトピアノ がひっそりと佇んでいる。


最初にこの店に来たときから気になっていたが、誰も弾いているところを見たことがない。


遥は、カウンターの奥で作業をしている琴音に声をかけた。


「琴音さん」


「……はい?」


「このピアノ、誰か弾くんですか?」


琴音の手が、ふっと止まる。


一瞬だけ、彼女の表情が曇ったように見えた。


けれど、すぐにいつもの落ち着いた顔に戻り、静かに答える。


「……いえ。今は誰も弾いていません」


遥は、もう一度ピアノを見る。


木目の艶が落ち、鍵盤のいくつかは少しだけ黄ばんでいる。


それでも、丁寧に手入れされているのがわかる。


「昔は誰かが?」


琴音は、小さく頷いた。


「……はい」


視線をカウンターに落とし、指先でそっとカップの縁をなぞる。


「昔は、よく母が弾いていました」


遥は、琴音の横顔をじっと見つめた。


「琴音さんも、弾くんですか?」


琴音は、一瞬だけ目を伏せる。


そして、静かに答えた。


「……昔は、少しだけ」


「少し、ですか?」


琴音は、かすかに唇を噛んだあと、小さく息をついた。


「でも、もう長い間弾いていません」


その言葉には、どこか決定的な響きがあった。


まるで、「もう二度と弾くつもりはない」 と言わんばかりの。


遥は、それ以上踏み込むべきか迷った。


けれど、琴音の指がカウンターの縁をそっとなぞる仕草を見て、ふと感じた。


(本当は……弾きたいんじゃないか?)


それを確かめるべきなのか、それともそっとしておくべきなのか。


「また弾いてみたくなること、ないですか?」


遥がそう尋ねると、琴音の指が、カウンターの縁でふっと止まった。


静かな間が流れる。


琴音は、視線を伏せたまま、小さく息をついた。


「……わかりません」


その声は、どこか遠いものを見つめているようだった。


遥は、もう一度ピアノに目を向ける。


「このピアノ、ずっとここにあるんですよね?」


琴音は、ゆっくりと頷いた。


「ええ。店を開いたときから、ずっと」


「じゃあ、琴音さんにとっても、馴染みのあるものですよね」


「……そうですね」


琴音の目が、ほんの一瞬だけピアノへと向けられる。


けれど、すぐにまたカウンターの奥へと戻った。


「でも、もうずっと弾いていません」


「弾こうと思えば、弾けるんですか?」


琴音は、カップをゆっくりと拭きながら、静かに答えた。


「……たぶん」


その言葉の中には、どこか確信のようなものがあった。


(やっぱり……)


琴音は、ピアノのことを「弾けない」のではなく、「弾かない」だけなんじゃないか。


何かが引っかかる。


でも、それ以上はまだ踏み込めなかった。


遥は、小さく息をついて、カウンターに視線を戻す。


「いつか、また弾きたくなったら……そのときは、聴かせてくださいね」


琴音は、少しだけ目を瞬かせた。


そして、ふっと微笑む。


「……どうでしょうね」


その笑みは、ほんの少しだけ、寂しそうにも見えた。

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