首捥ぎ地蔵3
幽世。簡潔に説明するなら、要はコインの裏の世界だ。コインの表である現世には姿を現わせないモノがその姿を晒す異界と言っても良い。
『おや、何時かのお若い方ですかな?もっと
近う、近うおいでなされ。御守りはどうされましたかな、気配が掴めぬのだが』
「あ、あの時の爺さんっすよ!!」
何処か安堵した声を出す東馬が石通路を歩こうと一歩踏み出し、僕は彼の首根っこを掴む。
「おい、何すんだ・・・ですか」
「無暗やたらに動かないでよ東馬。二貴、ちょっと押さえといて」
「任せとけ」
怪談話では度々出てくるよね、怪異の対処法を教えてくれる親切な神社の神主とか寺の住職とか。
だけど、現実はそんなに甘くないんだよ。
確かに東馬からしてみれば、アレは味方側かもしれない。でも悲しいかな、僕は全くそうは思えない。
体を少し逸らして奥を覗くと、成程・・・本殿には確かに大きな犬が描かれていた。
「突然だけどさ、東馬。一つだけ面白い話を聞かせてあげようか」
「は・・・?今そんな事」
「この街にはね、犬をお祀りする神社なんて存在しないんだ」
「────────────────は?」
「正しくは、有ったって言えば良いのかな。大狗神社は数十年も昔にとっくに取り壊されたんだよ。道路の開通に伴って、街は山の一角を切り崩したんだ。だからさ・・・正直な話、君から犬と神社なんて単語を聞いた時、僕は心底不思議だった」
幾ら小ぢんまりとした神社だろうと、ネットで調べれば一件位ヒットはするし、日がな図書館に籠って本を読み漁る僕だが、そんな神社は寡聞にして存じ上げない。
「それから、君が貰った御守りだけどね。随分とどす黒い呪いが掛かっていたんだ。持っただけで鼻が曲がりそうな獣臭で思わず踏みつぶしちゃったけど」
臭いモノには蓋と言うが、まさか本当に自分で蓋をする事になるとは思わなかった。サムライさんが僕に憑いていなければ、僕も漏れなく呪われていただろう。
「じゃあ、地蔵は」
「地蔵菩薩の役割は死した子供や人々の救済、それから厄払いだったかな。赤い前掛けは清く正直な色、魔除けを意味するらしいよ。地蔵は君を害そうとしたんじゃない、後ろから迫る邪悪なモノから君を守ろうとしていたんだ」
僕は周囲を見回して、見つけた。
それは所々が砕け、首が捥がれた地蔵の姿。
首捥ぎ地蔵、何だそりゃ。壊れかけてもあんな有難い陽の気を発してる物が呪いであって堪るか。
「最後に、君にはアレが老人、若しくは神職の姿に見えてるらしいけど」
僕はもう一度、先に立つモノを見る。
「僕にはアレが獣の様にしか見えないんだ」
犬
大狗
狼
大神
僕が先程から見ている存在は、本殿の前で鎮座する悍ましい呪いの塊。憎しみだけを眼に宿し、グルルルッと唸る巨大な大狗。
声なんて聞こえないし、言葉なんて分からない。
「絶対に、鳥居を潜らないでね。あ、でも東馬には後で一つやって欲しい事があるから宜しく」
ここから先に進めば、ただでは済まない。
二人に忠告してから僕は鳥居を潜る。
「サムライさん」
傍には何時だって僕を護ってくれる彼。
『────罰当たり』
初めて声を聞いた。
声に宿る重圧、それは元は神故の御力か。
人に忘れられた神の末路、転じてそれは服わぬ神。
障り神、或いは祟り神。
大狗は吠えた。
牙を剥き出し一直線に僕に向かって迫る。
振り上げられる右前脚、しかしそれをサムライさんが脇差で防ぐ。
返す刀で返り討ち。
『敬いを忘れ、住処を追い、名を奪った。恐れよ、怖れ、畏れ、懼れ、憎い、憎い、憎い』
黒く溢れるタールの様な怨念。
『祟る』
大狗の目が鈍く輝く。
不意に込み上げる吐き気に抗う術も無く、僕は吐き出した。
血の塊。喀血。壊血。
これは幻覚だ。
幻痛。
腕で口元を乱暴に拭い、ショートバッグの中から一枚のお札を取り出して口の中に突っ込んで呑む。
異物の不快感。
だが、そんな事にかまけていては僕は祟り殺される。
「随分と乱暴じゃないか」
『畏れ、人、根絶やす、罰当たり共』
耳が痛い話だ。
人は神を簡単に信仰する癖に、いざ自分の邪魔になるなら途端に掌を返して蔑ろにする。
そんなモノなんだ、人間なんて。
神が化生に堕ちようが、見えない者は何も思わない。
それで誰かが割を食おうと、それはある意味で自業自得と言えるだろう。
だけど、
「東馬は違ったんじゃないのかな。彼は貴方が神だと知らずとも、善意で手を貸した」
どうせ僕の声なんて聞こえてはいないだろうが、僕はそれでも言葉を紡ぐ。
「いや、もしかしたらそれも君の遊びだったのかもしれない。だとしても、善い事をした人間が報われないなんて話、僕は嫌いだな」
大狗の瞳が僕を射貫く。
人間の道理が神様に当て嵌るとは到底思えないけど、僕は神様の道理なんて知らないから声高々と間違ってると言える。
「だから。もうこの話はお終いにしよう、大狗」
サムライさんが、一刀で大狗を斬り伏せる。
幾ら相手が祟り神であろうと、既に信仰を失い、狂える神であるのなら彼が負ける道理はない。
『憎い、人、懼れろ、祟る』
「東馬、全速力で地蔵菩薩の首を戻して!」
身を傷つけられようと、絶えず憎しみ続ける。
再度。地を踏みしめる巨体を眺めながら、僕は大声で東馬に呼び掛けた。
「はいッ!!・・・え!?」
「とっととやれ!」
「うっす!!」
呆気に取られ、固まる後輩に僕はもう一度声を飛ばす。鳥居を潜り抜け、東馬は地蔵に走った。
幾ら損傷が激しいとは言っても、あれは未だ御力のある神仏の偶像。
首が元の位置に戻る。
すると
まるで重しでも伸し掛かったかのように、大狗はその体躯を地面に沈めた。
『祟、祟る、祟ってやる』
鋭利な爪を僕に振るおうと藻掻くが、届かない。
息を荒げ、それでも尚僕達を憎々し気に睨み付ける大狗に僕は歩み寄る。
「『朧八津主』」
『祟・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿?』
言葉は根源的な呪いだ。
名前は存在を縛る鎖に等しい。
「朧八津主様、それが貴方の名前だった筈だ」
今より昔・・・切り崩された山の名前は、八津山。
人に忘れられようと書物には確かに記録が残っている。図書館で土着信仰の文献を流し読みした破れかぶれの記憶だけど、僕は憶えている。
「八津の山を覆う朧気な霞は大狗様の仕業。山の安寧と恵みを齎す神、それが貴方だ」
『怨』
耳から液体が垂れる。
「信仰は確かに失った、住処も追われた、名前さえも奪われた・・・だけど」
『怨』
口の中に血の味が滲む。
「信仰が失われたのなら僕が信じるよ、住処を追われたのなら僕が壊れない場所に小さな社を建てる、名を失ったのなら僕がまた貴方の名を呼ぶから」
『怨』
ドクドクと心臓が脈打ち、血管が千切れる。
「だから、東馬を祟るのは止めて欲しい。貴方の存在を貴方自身が歪めたら、神で在った貴方はただの呪いを振り撒く畜生になり果ててしまうじゃないか」
『怨』
だけど、
「どうか思い出して欲しい、山の神。無慈悲で、しかし慈悲深く、厳しく人を見守り続けた貴方は確かに人に愛された神様だったんだから」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嗚呼』
言葉は、果たして通じた。
肥大化した大狗の体が徐々に縮小を始める。
人を祟り過ぎた、障りが蓄積された神は元の姿には戻れないと三好宮司は嘗て言っていた。
でも、それは余りにも悲しすぎる。
だったら僕が貰っても構わないだろう。
後に残るのは、小さな小さな・・・チワワ程の犬の神様だけだった。