後篇
イリスが国を出て三十年も経った頃、我が国に<隻眼の魔女>という、世界の最果て、氷の国に住む魔法使いの噂が届いた。
ただまぁ、元ネタから距離が離れ過ぎている所為か、噂というより最早伝説レベルの荒唐無稽な話で、話を持ち込んだ夫やその同僚も余り本気で信じてはいないようだった。
曰く、氷の城に住む青い瞳の魔女は、不老の美貌と無限の魔力を持っていて、試練の氷原を越えてやってきた者の願いをなんでも叶えてくれるらしい。
わざわざ人を避けて暮らしているのに勝手に会いに行くなんて、人間て本当愚か。
なんて思いながら聞き流した噂。
でも噂はどんなに年月が流れても消えることなく、まことしやかに残り続けた。
◆◆◆◆◆
やがて子供たちも全員巣立ち、数年前に夫を見送った。一人になった家で庭の手入れをしていると、スカートのポケットに忍ばせた手鏡からいつもの声が聞こえてくる。
「今いい?」
「ごめんなさい、今、花壇の手入れ中なの。急ぎじゃなかったら夜まで待って」
「判った、じゃあまた後でね」
庭の草取りを日暮れと同時に終えて、お風呂を済ませてから、夕飯代わりにおつまみとお酒を用意する。居間のソファーに落ち着いてから、手鏡をサイドボードにおいて、コツコツと鏡面を爪で叩いて話しかけた。
「おまたせ。で、今度は何を頼まれたの?」
他人に見られたら正気を疑われそうな状況だけど、今やこれが私の日常。
お酒を一口含む間に返事が聞こえた。
「ドラゴン退治。私の眼って人外にも有効だったわ、一目で平伏させたわよ」
「……ドラゴンなんてホントにいるの?」
「結構何処にでもいるわよ。空を飛べるから、人間よりよっぽど自由に世界中行き来してるわ」
「へぇ……」
信じてないけど……ドラゴンなんて子供の絵本に出てくる架空の生き物だし。
「その声は信じてないわね。いいわ、証拠を持ってきてあげる」
「ちょっと待って、今近くにいるの?」
「ええ、すぐそこにいるわ」
「どうして!? 退治したんでしょう?」
「そう依頼されたんだけど、会った途端かしずかれちゃって。こっちの言葉も判るみたいだし、一緒に来たいって言うから、連れてきた」
ドラゴンを? 凶悪なモンスターじゃないの?
「……大丈夫?」
「現状私の方が強いし平気。……でも、そうね、ドラゴン状態だと家に入れないって言ったら、人間に化けたから、今は男がそこにいるわ」
「え? 男の人と二人きり? それはそれで大丈夫?」
「やだ、なんか言い方が卑猥」
クスクス笑う声に被ってカランと綺麗な氷の音がした。
彼女も酒気を傾けているのだろう、今夜の話は長くなるかもしれない。
思いながら、自分のグラスを空ける。
「新しい恋人の自慢がしたいならそう言って頂戴。でも、変なお土産はもういらないわよ。ただでさえ我が家の居間は貴女がくれた変なもので一杯なんだから」
「変なものって……各国からの貢ぎ物よ。もっと有り難がりなさい」
「そんなこと言われてもねぇ……」
グラスに口を付けながら視線だけで部屋を見回した。
イリスに言った通り、我が家の居間はイリスが私にくれたもので一杯だ。
夫の見立てでは、国宝クラスのものや滅多に見かけない他国の珍品もあるらしい。だから子供たちには、私が死んだ後は好きに処分していいと伝えてある。あの子たちの生活の足しになるなら儲け物だ。
……だって、こんなもの、私には何の価値もないんだもの。
それらは、その気になれば国を盗ることも滅ぼすことも興すことも容易な魔女へ、人々が願いを叶えて貰う代償に捧げたものの一部なのだ。
イリスが求めた訳じゃない。だが、いつの間にかそう言う話になっていて、彼女のもとには様々なものが集まった。
そしてイリスは、律義にも勝手に捧げられたものを対価に、その願いを叶えるために奔走している。もちろんなんでも出来る訳じゃない、けど出来得る限りのことをしていた。
『だって、あんな怪しい噂に縋ってこんなところにまで来るのよ? なんとかしてあげたいじゃない』
と言った彼女を、お人好しと罵ったのは何年前だったろうか?
今度のドラゴン退治もその一つなのだろう。
何処の誰に頼まれたのか知らないが、私の親友を危険に巻き込まないで欲しい。
しばらくして鏡から差し出されたのは、手のひらサイズの虹の光沢を放つ何かだった。
「何これ?」
「ドラゴンの鱗よ」
鱗、と聞いていなければ二枚貝の貝殻に見える。何処かの国の螺鈿細工というものの原料が、こんな風な綺麗な貝殻を削り出したものではなかっただろうか? 昔、夫が商品として扱っていたのを覚えている。
昔と変わらない白い手からそれを取り上げ、ランプの明かりに翳す。貝殻とは違い、向こう側が透けて見えた。
「意外と綺麗。これなら飾っておいても変じゃないかしら」
「そっちじゃドラゴン自体珍しいものなんだから、ちゃんと飾ってよ」
「仕方無いわねぇ」
「もう、シシィは感動が薄くて贈り甲斐がない。もっと素直に喜んでよ」
「だって、別に何を貰っても嬉しくないもの」
酒気が零させたのは紛れもない本音。
私が本当に欲しいものは、無限の力を持つ魔女にも与えられない。
判っているのに、年を取ったからだろうか……最近こんな愚痴が良く口をついて出るようになった。
『イリスに会いたい』
愚かな願いをごまかすように、鏡から生えている手を握る。向こうもグッと私の手を握ってくれた。
「バーン、もっと珍しいものを頂戴。牙とか爪とかあるでしょ!!」
「は? 嫌に決まってるでしょう!!」
「……バーン?」
「ドラゴンの名前」
「名前があるの?」
「うん、私の奴隷になりたいって自分で名乗ってきたの」
「どれっ……、そうは言ってない!」
「あら、私に平伏してそばにいたいって言ったじゃない。あれってそういう意味でしょ」
「違う!! 私はっ、ただ貴女の……」
鏡の向こうから聞こえるやりとりにピンと来て、思わず零れたのは笑みだった。
あらあら……。
声の聞こえる鏡を覗き込む私の顔には、笑った所為ではない皺が幾筋も刻み込まれている。それが、あの日から流れた年月を教えてくれた。
もう二度と会うことの出来ない私の親友は、今日も何処かで溺愛されている。
「シシィ……シシィ……」
呼ぶ声が聞こえるのに、答える力が無い。
返事の代わりに、胸の上で組んだ手に持たせて貰った手鏡の柄を握る。
「シシィ……、イヤよ、置いていかないで……、貴女がいなくなったら、私一人になっちゃう……シシィ……」
大好きな親友の泣きじゃくる声が聞こえるのに、慰められない。
それが悲しくて、必死に心の中で呼び掛ける。
泣かないで泣かないで……。
「泣かないでください、イリス」
私が伝えたかった言葉を誰かが言う。
「だって、シシィが……」
「私がいます。私がずっと貴女といますから……」
「イヤよっ、シシィがいい……シシィじゃなきゃダメ。シシィ、お願い、私を置いていかないで……一人にしないで……」
「シンシアさん、大丈夫ですよ、この人のことはちゃんと私が引き受けます。だから安心して……」
「何、勝手なこと言ってるの! シシィ、安心なんかしちゃだめよ、バーンったらまた………」
「あれは貴女がっ……」
涙声のままバーンの悪口を私に向かって並べ立てるイリスを、次々論破していくバーン。しんみりしていた雰囲気がどんどん塗り替えられていって……結局、いつも通り。
ねぇ二人とも判ってやってる?
私もうじき死ぬんだけど。
今わの際ってやつなのに、なんでいつも通りに笑わせてくるのよ。
もう……笑って死ねるなんて、最高じゃない。
おかしくて、アハハ……と笑ったのに、もう声にはならない。
微かに吐息が漏れただけ。
雰囲気だけでも貴女に伝われば良いな。
最後まで笑わせてくれてありがとう、イリス。
私、貴女と親友で良かった。
先に行って待ってるから、もっともっと愛され人生楽しんで、いつか……愛されるのに飽きたら。
私に、会いに来て。
またね、イリス。
離れ離れになった日の、眩いドレス姿のイリスが私めがけて走ってくる妄想を抱いて、私はそっと息を止めた。
読んで頂きありがとうございました。
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