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その日の夕刻、暮れなずむサンティエンヌの第一地区でリュシーが待っていると、本当にジルベールがやって来た。馬車の扉を開けると、今朝方見たばかりの美貌の顔立ちに喜びを隠しきれない表情を浮かべ、馬車のステップ台から身を乗り出してリュシーに手を差し出してくる。
「おいで、リュシー。一緒に行こう」
何も言わずに白く触り心地のいい手を取ると、馬車の上へと引き上げられる。
向かいに座ると御者が扉を閉めた。
「今日は君を連れて行きたい場所がある。ひとまず宮殿に戻って身支度をしようか。杏色のドレスを仕立てさせたんだ、きっと君に似合う」
リュシーは何も答えられないまま、目の前に座る彫像のように美しい王子を見る。昨日とは異なるデザインの白い服を着たジルベールは、あいも変わらず翡翠色の瞳をじっとリュシーに固定したままだ。
アルフォンスが言うには、ジルベールはとんでもない遊び人らしい。今までの態度からすると、そういう人物には見えないけれど、王族という雲の上の人物の心の内などリュシーにわかるわけもない。戯れに平民に手を出すような貴族もいるので、リュシーも毒牙にかからないように気をつけなければと気を引き締める。
身分の違いからこうして行動を共にするのを断れなくとも、体を求められたらキッパリと断ろう。その結果専属ファロティエという立場を失ったとしても構うものか。
昨夜と同じくシルヴァ・ルイーヌ宮殿へと向かうと、リュシーはあっという間に身綺麗にされた。リュシーのために仕立てさせたという杏色のドレスは華美すぎず、かといって決して地味ではない。揃いの布で作られたフード付きのケープも手渡され、羽織るとリュシーの貧相な体を絶妙に隠してくれる。
ジルベールは全身ぴかぴかの真新しい装いに身を包んだリュシーをうっとりと眺めた後、ほうとため息をついた。
「うん、素敵だね。よく似合っている。どこか不備はないかい?」
「ありません、ありがとうございます」
実を言うと靴がきついのだが、そんなわがままを言えるような立場ではない。
とろけるような笑みを浮かべるジルベールは、「おいで」と言ってリュシーを隣の部屋へと誘う。細長い食卓には料理が並んでおり、どれも美味しそうに湯気を立てていた。
「食事をしてから観劇に行こうと思って。リュシーは劇を見たことはある?」
「いいえ。お客さんを取るために、歌劇場の外にならよくいるのですが」
「なら今日は、中に入って劇を楽しもう。その前にお腹を満たさないとね」
細長い食卓に向かい合って座ると、使用人が給仕をしてくれる。目の前のお皿に乗った料理はリュシーが見たことのないもので、両脇にはナイフとスプーンとフォークがずらりと並んでいた。こんなにたくさんのカトラリーを使ったことがないリュシーには、どうすればいいかわからない。
端に座るジルベールを盗み見しつつ見よう見まねでナイフとフォークを使い、食事をすすめる。
新鮮な野菜に肉や魚をふんだんに使った料理はどれもこれもとても贅沢なものである。
食卓にさっと目を走らせたリュシーは、内心でこう思った。
(この肉を一切れ、こっそりナプキンに包んで持って帰る……ってのはきっとダメよね)
ここでリュシー一人がいいものを食べるより、オリバーやジャンヌやアルフォンスにも分け合いたい。
(肉は匂いが出るから、きっと気がつかれる。パンならジルベール様にバレずに隠せるかしら)
リュシーは細長い机の端に座るジルベールをちらりと盗み見た。彼はナイフとフォークを華麗に使いながら食事をしており、リュシーと目が合うとにこりと微笑みかけてくる。
「どうしたんだい? 何か欲しいものがある?」
「あ、では、飲み物を……」
「わかった」
そう言ってジルベールが使用人に目で合図を送った瞬間。
(今だわ!)
リュシーはさっと皿の上に載ったパンを掴むと、膝上のナプキンに包み、そっとポケットに捩じ込んだ。
ジルベールも使用人も、誰も気がついていない。我ながら鮮やかな手つきである。
(この服がポケット付きでよかったわ)
「リュシーは赤ワインの種類は何がいい?」
「私、ワインの種類など分からないので、ジルベール様にお任せいたします」
何事もなかったかのようにリュシーは食事を続けながら、ジルベールにそう相槌を打った。
「そうかい? なら、僕の気に入っているものにしよう」
その後もリュシーは隙をついてはパンや焼き菓子などをポケットに入れ、食事が終わる頃にはポケットの中がパンパンになったのだが、ケープを被ったおかげで膨らんだポケットが見えなくなったのでホッと胸を撫で下ろした。
「リュシーは、パンが好き?」
「ええ、大好きです」
「なら次はもっとたくさんの種類を用意させよう」
「ありがとうございます」
次もたくさん持って帰れそうね、とリュシーは内心でウキウキした。
部屋を出て、廊下を歩き、再び外へと出る。
すっかり暗くなったシルヴァ・ルイーヌ宮殿の正面玄関には、四隅にランタンが備え付けられた馬車が停まっていた。
ジルベールに促されて中へと入る。内部もかなりの明るさであった。
御者の鞭打つ音と馬のいななきが聞こえ、ゆっくりと馬車が進み始めた。
「ジルベール様の馬車は、他に比べても明るいですね」
薄闇の中をランタンの炎を灯した馬車が進んでいく。リュシーとジルベールを乗せた馬車は車内も車外も過剰なほどに明るくなっており、そこだけが昼を切り取って持って来たかのようだった。リュシーは思わず口にしてしまい、しまった失礼だったかなと慌てて手で口元を押さえる。
ジルベールは気を悪くしたふうでもなく答えてくれた。
「暗いのは苦手なんだ。きっと『魔』に憑かれた時の恐怖が心に残っているせいなんだろう。君は僕を臆病者だと思うかい?」
「いいえ。あんなことがあれば当然だと思います」
「リュシーはファロティエの仕事をしていて、暗闇が怖くないの?」
「怖くないと言えば嘘になるんですけど、それよりも闇の中でゆらめくランタンの炎の美しさと力強さに心が奪われるんです。この灯りを灯している間、私は人々に安心を与える道先案内人になれるんだと」
リュシーの胸の内にあるのは、ランタンを手に家を出る時の父の姿。
そして初めて夜の都に繰り出した、あの日の夜の情景。
リュシーの中に根付いた気持ちは、まるで長い長い蝋燭に灯った炎のように果てがなく、消えない。
「……そうか。頼もしい限りだ」
「ルナ・ファロティエではなくて申し訳ないのですが……」
「何、大丈夫。きっと僕といれば、君はまたすぐに聖なる光を生み出せる」
あの時現場にいたジルベールは、リュシーが聖なる光をまた生み出せると信じて疑っていないようだった。
そう簡単にいけば悩みはしないのだけれど、と思う。
何度も何度も、試してみた。
けれども一度もうまくいった試しはない。
危機的な状況に陥らなければいけないのだろうかと考えたが、ルナ・ファロティエたちは別にピンチでなくとも聖なる光を生み出せるのだから、そういう問題ではないのだろう。
何だろう、何がいけないのだろうと自問自答を繰り返す日々である。
悶々としていると馬車が停まった。ジルベールが馬車から降り、リュシーも続く。目の前には見慣れたサンティエンヌ最大の歌劇場がそびえ立っていた。
「さ、行こう。特等席を用意してある」
ごく自然にリュシーの手を取り、ジルベールは歩き出した。
周囲の人は第一王子ジルベールの登場に俄にざわめき、お辞儀をする。
「皆、お辞儀してますね」
「僕は王族だからね。身分の低い者は僕が通り過ぎる間、頭を下げなければならない。僕から話しかけるまで、あちらから話しかけてもならない」
言われてリュシーはハッとした。
「あの、私もそうしなければならないのでは!?」
「君は特別だ。何せ僕の命の恩人なのだから、僕に頭を下げる必要などない」
言いながら握りしめられた手に少し力が篭る。陶器のように滑らかな掌は、本当に自分と同じ人間のものなのかと疑わしくなった。
リュシーは、これほどまでに綺麗な手を持つ人物を知らない。十五地区に住む人々は皆、労働に身をやつしているから、手は荒れ放題だ。
ジャンヌの手は日々の洗濯であかぎれているし、親方とオリバーは煙突掃除によって煤まみれで真っ黒な手をしている。
指先一つ取っても住む世界の違いを見せつけられている気がする。
しかしジルベールはそんなことを考えてすらいないのか、手を取ったまま歌劇場へとどんどん進んだ。人々はジルベールが通るとさっと道を開け、頭を下げる。
人でできた生垣の真ん中を通りながら、ジルベールはリュシーを伴って歌劇場へと入っていく。
最上階に設けられたバルコニー型のボックス席から舞台を見下ろす。
豪華なシャンデリアには何百本もの蝋燭が揺らめいていて、階下にいる人々を照らしていた。
幕が上がる。
歌劇の内容は、以前道を案内した酔っぱらいの中流階級の客が言っていたように、美貌の王子と平民の使用人の悲恋物語だった。
下町出身の平民である使用人が国の王子と恋に落ちる。二人は人目を忍んでは逢瀬を重ねるが、ついにはばれてしまい、仲を引き裂かれる。
使用人は罪悪感から川に身を投げ、王子は恋しい人の死に絶望して毒薬を自ら煽って死に、幕が下される。拍手と啜り泣く音が劇場にこだました。
劇が終わってからもしばらく席に座って余韻に浸る人が多かった。
ボックス席に並んで腰掛けているジルベールが、そっと話しかけてくる。
「今の劇、どう思う?」
「よく出来たお話だと思いました」
「君は泣かないんだね」
「あまり感情移入ができなかったので」
リュシーが正直に答えるとジルベールは首を傾げた。
「どうしてだい? この劇を見た大体の女性は涙を流すよ」
「それは多分、見ているのが貴族の方々だからだと思います」
リュシーの言葉にジルベールは理解できない、と言いたげな表情を浮かべた
「恐れながら申し上げますと、この劇に出てきた使用人の女性は、私から見るとちょっと現実味のない人物で……そもそも下町に住む平民というのはもっとたくましいから、失恋くらいで死ぬことはないんじゃないかなと思ってしまって。多分現実だったら、王子との恋仲を話のネタにして都で一稼ぎします」
するとジルベールは翡翠の瞳を大きく開いた。
「下町に生きる人々はそんなにも逞しいものなのか?」
「はい。そうでもしないと生きていけないので」
リュシーは頷いた。
「そうか……きっと君たちは、僕の想像以上に大変な暮らしを送っているんだろうね」
感心したように言うジルベールに、リュシーはそんな他人事っぽく言わないで、という言葉が喉元まで出かかった。
私たちが大変な思いをしているのは、あなた方貴族がひどい税の取り立てをするせいなのよ。
あなたたちがこうして夜に贅沢をしている間、私たちは蝋燭の一本すら灯すことを許されず、暗闇の中をじっとしているのよ。
リュシーの声なき声は、ジルベールには届かなかった。
別れ際、ジルベールは言った。
「楽しい時間をありがとう。明日は、夜会に出なければならないんだ。だからファロティエとしての仕事を頼みたい」
「……もちろんです」
「迎えを出すよ。また夜に会おう」
「はい」
馬車が去って行く。
リュシーはポケットに詰まったパンと虚しい気持ちを土産に、薄明けの都を一人歩いた。




