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「おうリュシー。今日もお互い生きててよかったな」
「アル……」
「昨日も酷い有様だったぜ。一体何人が『魔』に憑かれたことか」
夜明けの太陽がサンティエンヌの都を染める頃、リュシーは第一地区まで馬車で送られ、そこから十五地区まで歩く途中にアルフォンスに出会ってそう言われた。
相変わらずアルフォンスは真っ黒い警官服とえんじ色のネクタイ、それに白いシャツにべったりと血糊をつけている。頬にこびりついた返り血が拭いきれておらず、落書きされたように変な線が走っていた。
いつもと変わらないアルフォンスを見て、なんだかとてつもなくホッとすると同時に昨夜の出来事は夢なんじゃないかと思えてきた。
まさか王子様に連れられてシルヴァ・ルイーヌ宮殿に行き、専属のファロティエになってくれと言われるだなんて、およそ現実に起こる出来事だとは思えない。
きっと昨夜は歩きながら夢でも見たのだろう。
今のリュシーは、いつもと同じ格好をしている。男装の上にくたびれた外套を羽織り、父の形見のランタンを手にしていた。
こうして普段通りの服装に身を包み、狭苦しくでこぼこした石畳の道で、血と硝煙の匂いを全身から立ち上らせるアルフォンスと行き合うと、夢から覚めたような気分になる。
しかしアルフォンスはリュシーを見て、目深に被った警官帽の隙間から覗いた目を少し見開き、それから怪訝そうな顔をした。
「お前、なんかいつもと違うな」
「そう?」
アルフォンスはぐいと上体を傾けると、リュシーの頭に顔を寄せて匂いを嗅ぎ、顔を顰めた。
「獣脂臭くねえ。甘い匂いがする。それにこれ……」
外套の上に飛び出した髪をひとふさ手に取ると、するりと指を滑らせた。
「ツヤツヤだ」
今やアルフォンスのリュシーを見る顔は、疑わしげだった。俯くリュシーの顎に手をかけて上向きにさせると、不躾なほどジロジロと顔を見つめてくる。
「なんで化粧してるんだよ」
「それは……」
「お前、昨日何してた? どこ行ってたんだ」
もはや詰問だった。まるで犯人を捕縛して容疑を自白させるかのような、そんな口ぶりのアルフォンスに、思わずリュシーは思い切り腕を突っ張って胸を押し返した。
「ど、どこでもいいでしょ。放っておいてよ」
すたすたと歩き出すと、憮然とした声が追いかけてくる。
「何だそりゃあ」
「アルには関係ないもの」
「関係ないってことねえだろ」
「関係ないわ」
小走りになったリュシーをアルフォンスは追いかけてきた。履きなれた靴は底がペラペラで今にも破れそうだが、あの先が細くて踵が高い靴よりもよほど走りやすかった。
「ちょっと、ついて来ないでよ!」
「だから、俺の家はお前ん家の隣なんだから、ついて来るも何もねえだろうが!」
言い合いながら狭い通りを走っていると、いつものように洗濯籠を抱えたジャンヌが「あら、おはよう」と声をかけて来た。
「またやっているのかい? 仲良いわねえ」
「違うっ、そんなことない」
急停止して荒い息を吐くと、ジャンヌまでもが鼻をひくつかせて不思議そうな顔をした。
「随分といい匂いがするじゃないか。化粧までして……ははぁ、さてはアンタ、貴族のパトロンでも捕まえたね」
「なっ!? 違う違う!」
「ふうん? じゃあ、なんでこんなに綺麗になってるのさ」
「これは色々と事情があって……!」
「おい、リュシー」
「ひ!?」
不機嫌そうな声が頭上から降ってきて見上げると、凄まじい眼光のアルフォンスに睨みつけられた。
「こら、アル。そんな顔したらリュシーが怯えるじゃないか。アンタも男なら、盗られる前にちゃんと捕まえておかないとダメだよ。この子はきちんとした格好さえすれば可愛いんだから、うかうかしてるとお貴族様に拐われるよ。何よその顔は……ほら、洗ったげるからその服をお脱ぎ」
あいも変わらずなジャンヌはアルフォンスの衣服を華麗に剥ぎ取ると、「じゃあね」と優雅に手を振って去って行った。残されたのは、顔を真っ赤にしたリュシーと上半身裸のアルフォンスだけである。
「くそ……俺、また裸かよ。最近いつもだな」
「昨日、自分で言ってたじゃない。カモにされてるのよ」
夜警官は国で組織している機関なので、収入が良い。本来ならばアルフォンスはこんな十五地区のうらぶれた集合住宅なんかではなく、もっといい場所に住まいを構えられるのだ。にもかかわらず、頑なにあのボロい家を出ない理由は謎である。
リュシーはアルフォンスと共に再び歩き出した。今度は走らなかった。
曲がりくねった道を行き、階段を登って家の扉の前でアルフォンスが問いかけてくる。
「で、本当に貴族のパトロンを捕まえたのか」
「貴族っていうか……うーん」
「なんだよ、はっきり言え」
「まあ、そうねえ。じゃあアルの家で話すわ」
アルフォンスの家は当然だがリュシーの家と同じ作りである。狭い空間にキッチンと机と椅子と洗面所が一緒くたに詰め込まれていて、隅にはベッドが置かれていた。このベッド脇の壁は今は修理されているが、昔は穴が空いていて、そこから顔を覗かせたアルフォンスとよくおしゃべりをしていたものだ。
アルフォンスはひとまず帽子を脱いでベッドの上に放り捨てると、私服に着替えた。リュシーの目の前であるという配慮とか、遠慮とかは無しである。せめて見ないようにしようとアルフォンスに背を向けたリュシーは、塗装が剥げた壁に向かって声を発する。
「おばさんは?」
「仕事。やめていいっつってんだけどな。働いてないと落ち着かねえと」
着替えを済ませたアルフォンスはキッチンに作り置きしてあったスープを温めて皿に盛り付けると、戸棚からパンを取り出してテーブルに置いた。
「まあ食っていけよ」
「ありがとう。わ、野菜がいっぱい。ベーコンまで」
リュシーの食べる朝食よりも具沢山なスープに思わず声が出た。パンも上質なものを買っている。
「こんぐらい普通だ」
「じゃあ遠慮なくいただきます」
椅子をひいてアルフォンスと向かい合ってテーブルにつく。
野菜の旨味とベーコンの脂身が溶けたスープは、リュシーがいつも食べている屑野菜を使ったものよりも複雑な味わいがする。きっと夜中働いているアルフォンスのために、おばさんが仕事に行く前に作っておいたものなのだろう。
「で、結局昨日の夜は何してたんだ」
アルフォンスは気もそぞろな様子でスープをつつきながら問いかけてきた。リュシーはスープを存分に堪能してごくりと飲み込み、昨夜の出来事をざっくりと話す。
「子供の時、聖なる光を生み出した話をしたでしょ?」
「おう。貴族のガキに取り憑いてた『魔』を払ったってやつだろ」
「そう。その時助けた人に昨日偶然出会ったんだけど……」
「だけど?」
「……まさかの第一王子ジルベール様で、専属のファロティエにならないかって誘われたの」
「……はぁ!? あぁ!?」
アルフォンスはたっぷり十秒は固まったあと、声を荒げた。
「お前何言ってんだ? 夢見てんじゃねえのか」
「私もそう思ったんだけど……今日も迎えにくるから第一地区で待ってて欲しいって言われて」
「行くのか」
「むしろ逆らったら反逆罪で殺されると思わない?」
リュシーの最もすぎる問いかけにアルフォンスは苦虫を噛み潰したような顔を作り、それからばりばりと頭をかきむしった。ただでさえ癖のある黒髪がめちゃくちゃになっていくのもお構いなしの様子だった。
「……リュシー、お前それはまずいって。第一王子の噂、知らないのか」
「噂?」
「ジルベール王子はとんでもねえ遊び人で、毎夜毎夜どこかの屋敷の夜会に繰り出しては放蕩しまくってるって話」
リュシーは少し考えてから首を横に振った。
「そんな噂あったの?」
「夜警官仲間の間じゃ有名な話だぜ。あの王子が王になったら国はおしまいだって。きっとリュシーのこともたぶらかしてポイしようってんだ。おい、悪いこと言わねえから知らんぷりしてバックれちまえよ」
「流石にそれは出来ないわよ。そんなことして、この場所が見つかったら、十五地区のみんなにも迷惑がかかるし」
王族との約束を反故にしたらどんな罰が待ち受けているのか、想像するだけで恐ろしい。アルフォンスは信じられない、とでも言いたげに眉を顰め、それからパンを手に取ってむしゃむしゃと食べ始めた。怒りや不快感といったものをパンと一緒に飲み下してしまおうとしているようだった。やがて縁の欠けたコップを手に取り、白湯で一気にパンを胃の中に流し込むと口元の水滴を雑に手の甲で拭う。
「……乱暴されたらすぐに言えよ」
「うん、ありがとう」
アルフォンスが自分のことを心配し、ジルベールに対し本気で腹を立ててくれていることがわかり、リュシーはなぜか嬉しくなった。やおら真剣な顔をするアルフォンスに目を奪われる。
「俺は、お前と結婚するのを諦めてないからな」
「は……」
「お前が傷物にされたら、王族だろうがなんだろうが銃の餌食にしてやるから」
目が据わっている。きっとリュシーの異変を感じ取ったら、アルフォンスは王宮に乗り込むか、大通りを馬車で通るジルベールを待ち受け、愛用の銃でジルベールの頭部を狙うに違いない。
「そんなことしたら、その場で捕まってアルフォンスが殺されるわよ」
「お前の仇が取れるなら、それでも構わねえ」
アルフォンスの本気の覚悟を感じ取り、リュシーは何がなんでも自分の身を自分で守らねばと心の中で誓った。
「ご馳走様でした」
「おう。もっとゆっくりしていけば?」
「ううん。私も洗濯をジャンヌに頼みに行くから」
「そうか。じゃあな」
アルフォンスの家から出ると隣の自分の部屋へと帰る。静まり返った部屋の中で着ていた服を脱ぐと、簡素なワンピースへと着替えた。
脱いだ服を持って歩いていると、モップを持ったオリバーが親方と共に通りを歩いているのに出会う。
「あ、リュシーだ。……あれ? 何かいつもより綺麗?」
「おめえ、いい匂いするな。どうした? 出世したか」
オリバーと親方にも一目で見破られ、リュシーは苦笑した。
「昨日の夜、色々あって」
「ふーん。髪がツヤッツヤだね! すげえや、こうしてるとリュシーってば、お忍びで下町に来ているお姫様みたいだぜ」
オリバーは丁寧なお辞儀をしてみせると、おどけた口調で続けた。
「高貴なお姫様、この貧乏な煙突掃除人にぜひ仕事を恵んでもらえませんか。頼まれればどんなに煤まみれで細い煙突でも、綺麗にしてみせましょう……なんてね」
ペロリと舌を出してウインクをするオリバーに、リュシーは笑ってワンピースの裾を摘んで返事をする。
「あら、それは素晴らしいわね。お願いしようかしら」
「おいオリバー、遊んでねえで行くぞ」
「はーい。じゃあね、リュシー!」
「行ってらっしゃい」
リュシーはオリバーに手を振ると再び歩き出す。
ブラウデル川の下流には水を溜めた広場があり、平民はそこに集って洗濯をしている。
リュシーは水場で洗濯をしている女たちの中からジャンヌを見つけ出すと、近づいた。ジャンヌは水が溜まっている広場に裸足で浸かり、中腰状態で衣服を棒で叩いている。
平民は高価な石鹸を使えない。洗濯といえば、水で濡らした服を棒で叩いて汚れを落とすのだ。
広場には洗濯女たちが棒を振るう規則正しい音が響き渡っている。
リュシーが近づくとジャンヌは洗濯の手を止めずに話しかけてきた。
「あら、リュシーじゃないか。洗濯かい?」
「そう。お願いしようと思ったんだけど、沢山あるわね」
「今日は天気がいいからね。今ちょうど、アルの服を洗っているところだよ」
ジャンヌが棒で叩いている服は、確かにアルフォンスがいつも着ている警官服だった。衣服から抜け落ちた血の染みがジャンヌの足元を伝って下水へと流れている。
「全く、毎日洗ってあげてるってのに、どうしてこんなにも、血染めになってるんだろう、ね!」
ジャンヌは一言一言に合わせて棒を振るい、力一杯アルフォンスの警官服を叩いた。叩くたびに汚れが浮き出て、赤い水となって流れ落ちていく。
「そこらへんに置いといてくれれば、洗っといてあげるよ」
リュシーは山盛りになった洗濯籠を見て、どうしようかしばし迷った挙句、洗濯籠の隣に立てかけてある棒を手にした。
「ジャンヌ、これ借りてもいい?」
「いいけど。自分でやるのかい?」
「うん、たまにはやってみようかなって」
リュシーはジャンヌがしているように靴を脱ぐと、足首まで水に浸り、しゃがみ込んで持っていた服を濡らした。それから棒を振ってバンバンと叩き始める。
結構力が要るのがわかった。右腕がだるくなる。
「ねえジャンヌ。恋って何かしら」
「そうねぇ。その人のことばかり考えて、何も手につかなくなるもの、かねぇ」
「ジャンヌはそういう経験ある?」
「そりゃああるわよ。心に火がついたような、燃えるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなるの」
「ふぅん……」
リュシーはジャンヌの言葉を聞き、アルフォンスのことを思い浮かべる。が、別に心が燃え上がるような気持ちにはならない。やはりリュシーにとってアルフォンスは、ただの幼馴染兼隣人以外の何者でもないのだろうか、と考えた。
「あぁ、でも」
ジャンヌはふと何かに思い至ったかのように、洗濯を叩く手を止めずに意味ありげな視線をリュシーへと送ってくる。
「近くにいすぎて自分でも気がついてないって場合も、あると思うよ」
「近くにいすぎて……」
「そ。燃え上がりすぎると一瞬で消える。細く長い方が続いたりするもんさ」
「なんだか松明と蝋燭みたいね」
ぼうぼうと燃える松明の炎は明るいが持続時間が短い。儚げな蝋燭の方が長く燃えるものだ。
そう例えるとジャンヌは呆れたように肩をすくめた。
「アンタにはまだ恋より仕事って感じがするわね。……さ、アルの服はこれでおしまい。ところでリュシー、あんた洗濯下手くそね。洗ったげるからお貸しよ。アルの服持って、家にお帰り」
リュシーが拙い手つきで叩いていた服をジャンヌが強奪し、棒で叩き始める。
「汚れている箇所から洗い始めなきゃ。ただ叩けばいいってもんじゃないのよ」
ジャンヌが袖口を丹念に叩くと、みるみるうちに汚れが浮き出て流されていく。どうやらリュシーの出番はなさそうだった。立ち上がりポケットから硬貨を三枚取り出すと、中腰になっているジャンヌのエプロンにそっと入れる。
「ありがと。これ、アルの分も併せて洗濯代」
「どうも」
リュシーは汚れの落ちたアルフォンスの服を持って、十五地区へと引き返した。




