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馬車が大通りを走る。
通り過ぎる馬車ならば何百回と見てきたが、馬車の中から通りを見るのは初めてだった。
目の前には絵画から抜け出してきたかのような美貌の青年が座っている。
真っ白い正装には金縁の刺繍がついており、そこを流れる肩にかかった金髪はつややかで、馬車内の照明をうけて反射していた。青年は整った顔立ちに優雅な笑みを浮かべており、非常に機嫌が良さそうだった。
獣脂の臭いが染みついた自分が同じ空間にいていいのだろうかと、居た堪れない気持ちになる。臭いだけではない。リュシーは今、男物のゴワゴワとしたズボンとシャツを着て、着古した外套を羽織っている。履いている靴は底がペラペラで、今にも穴が開きそうだった。この馬車に乗るのにどう考えても不釣り合いな服装に、身分。
内心で不快に思っていないだろうか、そもそもなぜ馬車に乗せたのだろうか。
何も聞けずに困っていると、青年の方から話を切り出してきた。
「予感はしていたんだけど、まさか本当に会えるとは思わなかった。あの日君に助けられてから、どれほど探しても見つけられなかったというのに。偶然の力というのはすごいね」
「はい。あの、どこへ向かっているのでしょうか」
まさか偶然出会っただけでなく、馬車に乗せられるとは思っていなかったリュシーは恐る恐る尋ねる。
「どこだと思う?」
逆に質問され、リュシーは口をつぐんだ。
パルマトレの丘のポンドール公爵邸の前の大通りをひたすら南東に走る馬車。ブラウデル川に沿って作られているこの大通りをずっと行ったところにある宮殿を、サンティエンヌに住む者ならば知らない者はいない。
リュシーは恐れ多すぎる想像を、か細い声で口にした。
「シルヴァ・ルイーヌ宮殿……でしょうか」
「正解だ。さすがは道先案内人、よく知っている」
知らない人はいないでしょう、とは言えなかった。だってこの場所はもうサンティエンヌの郊外で、周囲には建物がない。等間隔に植えられたイチョウ並木の通りが行き着く先は王族たちの居住区、シルヴァ・ルイーヌ宮殿以外にあり得ない。
馬車は通りをひた走り、リュシーの予想通りに宮殿へと吸い込まれていった。
「さあ、着いたよ。お手をどうぞ」
「いえ、恐れ多いので……」
すると青年はふっと笑みを漏らし、「抱き上げてあげようか?」と言い出した。
リュシーはものすごい勢いで首を横に振ると、差し出された手に恐る恐る自分の手を重ねる。手はすべすべしていて真っ白で、爪の先まで完璧に手入れが施されており、栄養不足でひび割れた爪とカサカサした老人のような己の皮膚が恥ずかしくなった。
俯き加減で馬車をおり、落ち着かない気持ちで視線を石畳に固定する。シルヴァ・ルイーヌ宮殿は石畳すらも下町のそれとは異なり、均一な長方形の石が果てのない広場にぎっしりと敷き詰められている。割れた石畳の破片や轍やぬかるみに足を取られることなく歩けるというのは何て贅沢なのだろう、とリュシーはぼんやり考えた。
「リュシー、顔を上げて見てごらん。僕の住処――シルヴァ・ルイーヌ宮殿へようこそ」
シルヴァ・ルイーヌ宮殿。
サンティエンヌに住む皆が知っているが、他の上流階級の人々が集まる場所同様に、絶対に足を踏み入れられない高貴な場所。
今リュシーはそのシルヴァ・ルイーヌ宮殿をかつてないほど間近で見上げていた。
コの字型の宮殿は縦にも横にも広大で、大きなガラスを嵌めた窓が無数に存在している。建物の外観には繊細な装飾が施されており、クリーム色の宮殿そのものがまるで巨大な芸術作品のようであった。
「さあ、中に入って。まずは身だしなみを整えよう」
「あの、どうしてですか」
「君に十二年越しの恩返しをするために決まっているさ」
「恩返し?」
「そうだよ。君は十二年前のあの夜、僕の命を救ってくれた。あの時、僕の護衛のエドウィンは君の父上に金貨を一枚渡していたけどね、本当はそれっぽっちの褒美じゃ足りないほどのことを君はしたんだよ」
「あの、あなたは……」
「そういえばまだ名乗ってなかったね」
青年はふと気がついたようで、豪奢な宮殿を背景に、胸に手を当てて優雅な挨拶をした。
「僕の名前はジルベール・ド・ラ・クロドミール・モントリオーヌ。この国の第一王子だ」
「だ……第一王子……王太子様!?」
「そう。気軽にジルと呼んでくれ」
あまりに難易度の高いお願いに、リュシーはその場に卒倒しそうになった。




