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パルマントレの丘の上、ポンドール公爵邸。
邸宅の中は贅を尽くした作りとなっていて、列席しているのは誰も彼もが選ばれし高貴な身の上の人々ばかりだった。
今宵集っている人の中で最も位が高いのは、邸宅の主人であるジャック・ポンドール公爵その人……ではない。
流れるような金髪を後ろで緩く束ねて肩に垂らし、翡翠色の瞳をじっと窓の外に向けている美青年。
十七歳の青年はこの国の王位継承順位第一位である王太子。
ジルベール・ド・ラ・クロドミール・モントリオーヌであった。
「殿下、今夜の宴はいかがでしょうか。窓辺になどおらず、もっと部屋の中央に行っては? 皆、貴方様に話しかけたくてうずうずしております」
「ポンドール公爵」
邸宅の片隅で外を見ているジルベールに、ポンドール公爵が話しかけてきた。
正装の下から突き出た腹を重そうに抱えながらも、愛想の良い笑顔を浮かべている。ジルベールも咄嗟に笑顔を繕った。
「いやぁ、社交デビュー以来、殿下がこうして積極的に夜会に出席してくださるものだから、どこの家も競うように開催しておりますよ。我が邸宅も他家に見劣りしないようにシャンデリアの数を増やしたのですが、いかがですかな」
言われてジルベールは天井にちらりと翡翠色の瞳を向けた。
高い天井からはクリスタルのシャンデリアが吊り下がっており、煌々と蜜蝋が燃えている。なるほど前回に来た時よりも数が増しており、会場は昼のような明るさに満たされていた。
「良いと思うよ。僕は暗いのが嫌いだから」
「えぇ、えぇ。そうでしょう。……ところで本日は目当てのご令嬢など、おりましょうか。我が家の二番目の娘が殿下と同い年でして」
「存じております。先ほど一緒に踊りました」
「おぉ! そうでしたか」
ポンドール公爵は揉み手をしながらますます笑みを深めた。口をめいいっぱい引き伸ばした顔は、まるで蛙みたいだなとジルベールは内心で思った。
「どうでしょうか。娘はそれはそれは、殿下に熱を上げておりまして……」
またか。
うんざりするほど聞かされた話を再び持ち出され、ジルベールは笑顔を保ち続けるのに苦労した。
娘自慢が始まる前に会話を切り上げるべく、ジルベールは公爵の話を遮った。
「まあ、その話はまたおいおいにしよう。僕はまだ、結婚相手を決める気がないんだ」
いつもならばこれで引き下がる公爵も、今夜はしぶとかった。
恐らく妻であるポンドール公爵夫人や娘からせっつかれているのだろう。
揉み手をしながらもますます言葉を重ねてくる。
「左様でございますか。しかし殿下ももう十七歳。夜毎出かけているところを見るに、妃候補選びに苦慮されているようでございますが……」
そうして少し周囲を見回してから、ジルベールに顔を近づけ小声で続ける。
「……殿下のお眼鏡に叶う令嬢がいないのであれば、血筋や父親の政治的地位から選ぶのも重要でございますよ。その点我が娘は、全ての条件をクリアしております。公爵家の次女、わたくしめは宮廷で陛下の覚えもめでたい。肝心の娘も、父親のわたしが言うのもなんですが、見目麗しく聡明でございます。きっと王太子妃として、ひいては将来の王妃として、殿下の手助けをすることでしょう」
ジルベールはポンドール公爵の肩越しに、部屋の中央にいる娘に目を向けた。
豪華なブロンドの巻き毛を持つ令嬢は、この場にいる誰よりも華美なドレスと宝石で着飾っていた。親指の爪ほどもあるルビーの首飾りで胸元を飾り、耳には同じくルビーのイヤリングをつけている。孔雀の羽でできた扇を持ち、パニエで膨らませたドレスは流行の最先端を抑えていた。
ドレスに負けない派手な顔立ちをした令嬢は確かに美人だ。美人ではあるが、少なくともジルベールの好みとはかけ離れていた。先ほど一緒に踊った時も散々誘惑するような視線を向けられていたが、ジルベールは完全に受け流していた。
ジルベールは視線をポンドール公爵に戻すと、笑みを湛えたままに言う。
「ご助言、痛み入ります」
是とも否とも言わずそれだけを口にする。
「さて、本日はもうお暇するといたします」
「もうですか? まだ会は続きますが」
「せっかくですが」
「そうですか。ではまた夜会を開く時にはぜひ、お越しください」
「ええ」
ポンドール公爵に軽く会釈をし、ジルベールは部屋を横切った。去り際にポンドール公爵令嬢が話しかけたそうにこちらを見てきたが、気がつかないふりをする。
廊下に出ると喧騒は遠くなる。
しんと静まり返った廊下を歩き、玄関まで向かった。
窓の外から見える空は雲が厚く、今夜は月も星もよく見えない。
そんな夜には、あの日の夜の出来事が蘇った。
鼻を突く嫌な臭い、月のない夜に蠢く「魔」、そしてあの時に出会った光。
十二年間ジルベールの心を掴んで離さないのは、あの絶望的な状況を救ってくれた聖なる光とそれを生み出した杏色の髪を持つ少女だった。
なぜか今夜はいつになく胸騒ぎがした。
もしかしたら会えるかもしれないという期待に胸が高鳴る。
名前も知らない、聖なる光の導き手である杏色の髪の少女。
十二年間探し続け、恋焦がれ続けている彼女に会うために、ジルベールはポンドール公爵邸を後にした。
***
パルマントレの丘の上、ポンドール公爵邸。
物思いに耽っていたリュシーは何となく丘の上の屋敷に目を向ける。
風が強くなってきた。フードが取れないようにしっかりとランタンを持っていない方の手で押さえる。
今夜は舞踏会なのだろう。楽隊の奏でるゆっくりとした音楽がかすかに耳に届く。何台もの馬車が庭先に停まっており、主人の帰りを御者とファロティエが待っている。彼らもひとときの時間をそれなりに楽しんでいるようで、御者同士、ファロティエ同士が語り合う姿が見えた。
そう、見えるのだ。厚い雲に月や星が覆われていても、煌々と焚き付けられている松明やファロティエたちの明かりのおかげで、こんなに遠くても見えてしまう。リュシーの鼻に届くのは獣の脂が溶けて燃える嫌な匂いではなく、甘い甘い蜜の香りだった。大方のファロティエが使う獣脂の蝋燭ではなく、貴族お抱えのファロティエが使うことを許されている蜜蝋の香りが漂っている。
華やかだった。
丘の上の優美な曲線を描く鉄格子の向こうは別世界だった。
思わず見入っていると、突風になぶられて被っていたフードが外れ、その拍子に長い杏色の髪がなびく。なおさなければと思いつつ、片手がランタンを持っていて塞がっているためにうまくいかない。
やがて屋敷の扉が開き、一人の貴族が出てくる。その貴族は一際豪華な馬車に乗り込んだ。御者が馬の手綱を引き、馬車が動き出す。ファロティエは乗っていなかったが馬車の四方に大きなランタンが付けられており、蜜蝋がボウボウと燃えている。
門扉が開いてゆっくりと馬車が通りへと出てくる。
そしてリュシーの前を通り過ぎようとしたまさにその時、中に座っていた貴族と目があった。
――翡翠色の瞳。絹のように流れる金髪。人形のように美しい顔立ち。
つい今しがた思い出していた少年が育てばこうなるのだろうと思える人物だった。リュシーは思わず髪の毛をまとめるのさえ忘れ、美貌の青年貴族に目を奪われる。風になぶられてリュシーの特徴的な杏色の髪が宙に散る。
驚いたのはリュシーだけではなく、青年も同じようだった。
馬車が停まり、扉が開く。
顔を覗かせた青年の一つにまとめた金髪が、水のようにはらりと流れる。翡翠の瞳に信じられない、という思いを乗せ、それでも青年は戸惑いながらも口を開いた。
「……君、名前は」
その問いかけでリュシーは、この人はあの時の少年に違いないと確信した。
「……リュシーと申します」
「あぁ」
青年は顔を綻ばせ、馬車を降りてリュシーへと駆け寄ってくる。
そうしてリュシーの手を取ると、喜びを隠しきれない様子で言った。
「やっと見つけた。ずっとずっと探していたんだよ。僕のルナ・ファロティエ」
あの日見つけた夢のきっかけを与えてくれた少年が、十二年の時を経て、リュシーの目の前に現れた。




