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リュシーは五歳のある日、父の仕事についていきたいとせがんだ。断られると思っていたけど、父は少し迷ったのちに了承してくれた。
父はリュシーにベルトの端を持たせて、「絶対に離してはいけないよ」と言った。
初めての夜の都は、昼とはまるで違う風景が広がっていた。
日が暮れた街は闇が支配している。真っ暗な通りは手を伸ばした先に何が建っているのかわからず、すれ違う人の顔も見えない。
目線の低い子供のリュシーからすると、見上げる大人たちは真っ黒で、まるで実体のない影のようだった。
第一地区に立ち並ぶ優美で巨大な石造りの歌劇場や邸宅から漏れ出る光が眩い。そして通りでは、暗がりの中にただファロティエの持つランタンの明かりだけがゆらめく。
「ファロだよ」と客を引く声があちらこちらで聞こえ、身なりのいい人々が硬貨をはらって道先案内を頼む。
ファロティエが歩き出すと、わずかだが力強い光源が宙に浮かび、動く。蝋燭のちっぽけな炎は儚げで、でも力強く。燃える火はまるでひとりでに動いているみたいだった。
――きれい……。
全てが薄ぼんやりとして輪郭のない世界に炎だけがはっきりと踊り、リュシーは心が奪われた。
そうしてキョロキョロとしているうちに、気がつけばベルトを手放しており、父とはぐれて知らない場所に来ていた。
「おとうさん?」
あれだけの数がいたファロティエもいなくなり、途端に漆黒の世界がとてつもなく恐ろしく感じる。
「おとうさん?」
リュシーは先ほどよりも大きな声で父を呼んだ。が、返事はない。
ブラウデル川のザアザアと流れる音が聞こえてくるので、おそらく第一地区からそう遠く離れていないはずだ。だとするとリュシーはいつの間にかどこかの路地裏に入り込んでしまったことになる。
リュシーの脳裏に父の声が蘇った。
――いいかい、リュシー。闇の中には「魔」が潜んでいる。路地裏や吹き溜まりには特に。「魔」は人間が大好物で、見つかればたちまち取り憑いて人間を悪魔に変えてしまう。それに、出るのは「魔」だけじゃない。夜には悪い人もたくさんうろうろしているから、外に出ると拐われてしまう。だから陽が暮れたらきっちりと木戸を閉めて、家の中でじっとしているんだよ。
「ど、どうしよう……どうしよう」
リュシーは一歩先すらも見えない暗闇の中で一人パニックになりかけた。
おとうさん、おとうさんと大声で呼んでも父は来てくれず、一体自分はどれほど前から一人でうろうろしていたんだろうと考えた。
壁に手をつき当てもなくうろつくと、どんどんと大通りから離れて奥まった方に進んでいる気がした。しかし足を止めると一生この暗がりから出られなくなりそうで、リュシーは壁づたいにがむしゃらに歩いた。
どれくらいそうしていただろうか。
道なりに進んで突き当たりを折れようとしたところで、嫌な気配を感じた。突然悪寒が走ると、まるで氷水を頭から被ったかのような冷たさが全身を包み込み、一歩も先に進めなくなった。
この先に何かとてつもなく嫌なものがいる。
直感したリュシーは、そうっと壁から頭だけを覗かせ——出会ってしまった。
ゾワリとのぼり立つのは、夜の闇よりも濃い漆黒。
ひりつくようなそれは、誰かに取り憑きまるで湯気のようにまとわりついていた。
あまりの恐怖に立ちすくんでいると、むくりと闇を纏った誰かが起き上がる。小さい背丈は、まだリュシーと同じ五歳前後だろうと思わせる身長だった。
その誰かは、この暗がりの中、目だけが爛々と赤く輝いていた。
「ひ……!」
人ならざる姿に思わず後退りをし、走って逃げようとする。が、たった一度の跳躍で影を纏った人物はリュシーに近づき、前に回り込むと肩を掴んで逃すまいとする。間近で見ると、少年だということがわかった。
少年は赤い瞳を爛々と輝かせたままリュシーの首を掴み、尋常ではない力で締め上げてきた。理屈など何もない、ただひたすら殺戮衝動に任せた行為のように感じられた。息が出来ずに苦しく、逃げ出そうにも逃げ出せない。
これが「魔」に取り憑かれた人間。
(……やだ……こわい、こわいこわいこわい!)
リュシーは薄れる意識の中で、必死にもがいた。
(死にたくない……死にたくない!!)
そうして精一杯に抵抗していると——突如、体を熱いものが駆け巡る。ぐるぐると巡るその熱を外へと出そうと、夢中で両手を合わせた。すると手のひらの間から出てきた、光。蝋燭の火なんかじゃない、もっと眩く、まるで夜を昼に変えてしまいそうなほどのものだった。
カッと光ったそれは二人を包み込み、少年は苦悶の声を上げた。悍ましい雄叫びが響き渡り、リュシーは声が少年のものではなく取り憑いた「魔」のものであると直感する。
「出ていって! その子から、出て行って!!」
夢中だった。助かりたかった。自分が助かるためには、この少年に取り憑いた「魔」をどうにかする他ない。
両手を突きつけるようにかざすと、苦悶の声はますます大きくなる。一際鋭い断末魔を上げると、少年の体に取り憑いていた黒い影が消える。まるで糸の切れた人形のようにがくりと力を無くし、リュシーもろとも少年は地面へと倒れ込んだ。
光は徐々に弱くなり、先ほどまでの比ではないものの、まだ周囲がわかるくらいの明るさは残っている。
リュシーは咽せながら少年を見た。
世にも美しい少年だった。絹かと見紛うほどにつややかで真っ直ぐな金の髪。磁器のように白い肌。そして女であるリュシーよりもはるかに整った顔立ち。
着ている服からして、どう考えても貴族の子供だろう。このままここに置いていくわけにもいかないので、近づいて体を揺さぶった。
「ゲホッ、ゲホ……ねえ、あなた。ねえ、起きて」
ゆするとわずかに目を開ける。先ほどまでの憎しみに塗れた赤い目とは異なる、翡翠色の瞳だった。吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳で、こんな状況でなければリュシーはきっと見惚れてしまっていたに違いない。
「……う……君は……僕は……『魔』が……」
「『魔』はいなくなったわ」
「……もしかして君が?」
少年は身を起こすと、人形のように美しい顔を驚きに強ばらせる。見つめていたのは、リュシーの掌に灯る明かりだった。
「それは……聖なる光!」
「聖なる光? 何、それ」
「何って、『魔』を退ける力がある光だよ。君、知らないの?」
リュシーは少し考えてから首を横に振った。なおも少年が何かを言おうと口を開くが、慌ただしい声と足音に注意が逸れた。同時に、リュシーの手に灯っていた明かりも消える。
ガシャガシャと鎧がぶつかる音がして、数人の兵士がやって来た。手には赤々と燃える松明を持っており、誰も彼もが必死の形相だ。
「……殿下、殿下! ご無事でしたか!?」
「あぁ、エドウィン」
少年はホッとしたように言うと、立ち上がる。松明の炎に囲まれ、先ほどの光とは異なる橙色の明かりに周囲が包まれた。
「僕は大丈夫」
「ようございました……! 拐かされたとの知らせを聞いた折には、皆、心臓が止まる気持ちでございました。主犯は既に捕らえております故、ご心配なく。ささ、早く馬車にお乗りください。宮殿にお戻り致しましょう」
「うん、でもその前に」
兵士たちに恭しくかしずかれた少年はリュシーを振り返る。
「彼女が僕を助けてくれたんだ」
「この娘が、でございますか」
「そう。僕に憑いた『魔』を払ってくれた」
「それは、なんと……!」
兵士の一人が歩み寄り、リュシーの手を取る。
「娘、よく殿下を助けてくれた。礼を言う。一人か? 家はどこだ」
「あの、おとうさんとはぐれちゃって」
その時、リュシーと呼ぶ声が聞こえ、ランタンの明かりがゆらゆらと近づいてくるのが見えた。特徴的な形のランタンは見間違うはずがない、父のものだ。
「おとうさん」
「リュシー!」
父はリュシーを見つけて近づこうとしたが、物々しい兵士や見るからに身分の高い少年を前にして立ちすくむ。
するとリュシーの手を取っていた兵士が父に歩み寄り、話しかけた。
「この娘の父親か」
「左様でございます」
父が戸惑いながら頷くと、兵士は懐から硬貨を一枚取り出し、父の手に握らせる。
「この娘は今晩、たいそうな働きをした。これは褒美だ、取っておくがいい」
リュシーの目に狂いがなければ、渡したのは金貨だった。松明の光を反射して輝く黄金色の硬貨は、リュシーが今までお目にかかったことのない大金だ。これ一つでひと月は暮らしていけることをリュシーは知っている。
「殿下、表の通りに馬車が停めてあります。参りましょう」
「ああ」
少年は頷くと、兵士に囲まれて歩き出した。リュシーとすれ違う瞬間、ちらりとこちらを見た。透き通る宝石のように美しい緑色の目と目が合った。
「あの、ありがとう。助かったよ」
それだけを言い残し、去っていく。
馬の蹄の音と車輪が軋む音がして、やがて通りは再び闇と静寂に包まれた。一つ違うのは、父の手に持つランタンが周囲をぼんやりと照らしていること。
「リュシー。帰ろう」
「うん……おとうさん、迷子になってごめんなさい」
「お前が無事ならいいさ」
父はリュシーを責めなかった。道すがらに先程の出来事を話すと、父は黙って聞いてくれ、家についてからおもむろに口を開く。
「リュシー、その話が本当なら、お前は今日聖なる光を生み出したことになる」
「さっきの男の子も言ってた。『魔』を退ける力があるって。聖なる光って、何?」
「説明の通りだ。いいか、リュシー。俺たちファロティエは蝋燭の炎を手に夜の道を案内する。そうして強盗や殺人、『魔』から人々を守るわけだが、それだって運が悪ければ事件に巻き込まれることもある。だが、聖なる光は違う。その輝きは『魔』を寄せ付けず、人々を守ってくれる。この聖なる光を宿したランタンを持つ道先案内人のことを、『ルナ・ファロティエ』と呼ぶんだ」
「ルナ・ファロティエ……」
「満月の夜は『魔』の活動が減る。それになぞらえて、聖なる光を生み出す夜の道先案内人のことをルナ・ファロティエと名付けた。誰ともなく呼ぶようになった名称だ」
「おとうさんは? 聖なる光、作れるの?」
このリュシーの質問に、父は首を小さく横に振った。
「父さんには無理だった。あれは本当に、限られた人にしか作れないんだ」
そして父は床に膝をついてリュシーの目線に合わせると、肩に手を置き優しく言う。
「リュシー。お前が聖なる光を生み出せるなら、人々を夜の闇から守り、安全に行き来が出来る導き手になれる。全てのファロティエの憧れだ。でも、今日はもう寝なさい。お前にこの仕事を見せるのは、やはり早すぎた。恐ろしい思いもしただろう。体を休めるべきだ」
そっと背中を押され、ベッドに入るように促される。
真っ暗な部屋を移動して隅のベッドに潜り込んだ。頭から布団をかぶっても、まだ心臓はドキドキ鳴っていて目は冴え渡っていた。とても眠れる気はしない。
たった数時間の間にさまざまな出来事があった。
窓の隙間から漏れ出る、宮殿のシャンデリアの煌びやかで幻想的な明かり。
夜の闇に浮かんだランタンの儚くも力強い光。
闇よりもなお濃い、漆黒の影――「魔」。
魔憑きとなった少年の人ならざる動き、赤い瞳。
そして……。
(聖なる光。ルナ・ファロティエ)
体の奥から湧き上がる、あの熱の塊にリュシーは心を奪われた。
もう一度できるかなと思い、布団の中で両手を合わせてみた。目を瞑り、光を生み出そうと念じる。けれどもかび臭い布団の中は暗いままで、小指の爪ほどの明かりさえも出てこない。体を芯から焦がしてしまいそうな熱も感じられない。
何がダメなんだろうと考えた。
「魔」が近くにいないといけないのだろうか。それともあの少年?
わからない。
わからないけど、もう一度と思う。
布団をかぶって考えていたら、いつの間にかうとうとしてしまい、気がついたら陽は高く昇っていた。
ベッドから出たリュシーは、もう既に起きてキッチンに立っていた父に言った。
「ねえおとうさん、私、ルナ・ファロティエになる」
父は振り向いて、笑いかけてくれた。
「そりゃ、いいな。頑張れよ。父さんがなれなかったものに、お前がなってくれ」




