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リュシーの一日は日が暮れてから始まり、夜が明ける頃に終わる。
夜間の道先案内人という職業柄、生活は普通の人間とは真逆だった。
まず陽が落ちる前に目を覚ますと、外の共同の井戸から水を汲んでくる。それで顔を洗ってから、夕食だ。
食事は一日に二回。内容はパンが一つとスープ、それに収入が多かった時は肉や魚も食べられる。が、そんな贅沢ができるのはせいぜい週に一度が限界だった。
あとはたまに市場で麦粥を食べて帰ってくる時もある。
これでも界隈ではマシな食生活を送っている。煙突掃除夫の親方とオリバーなんかは、月に一度しか肉を食べていないはずだ。育ち盛りの子なので食べ足りないはずなのだが、オリバーは笑って「パンが食べられるだけマシさ」と言っていた。見かねたアルフォンスがこっそり食料を差し入れしているのを、リュシーは何度か目撃したことがある。
平民の暮らしは苦しい。
王侯貴族が何かにつけて税を取り立てるので、どの家もギリギリの生活を強いられていた。食うに困った連中が闇夜に紛れて強盗するのは、到底許されることではないにしても、無理のない話だった。そうでもしないと生きていけないのだ。誰かから盗んでも、奪ってでも、金目のものを手に入れなければならない。自分達を搾取している貴族がどんな被害に遭ったって、周囲の住民たちは知らんぷりを決め込んでいる。危険を承知で夜に遊び歩いている方が悪いのだと考える風潮さえあった。
――みんな、生きるのに精一杯。
十五地区の人々は貧しくても身を寄せ合いながら協力して暮らしていて、なんとか笑顔を失わずに済んでいるが、そうではない地区だって沢山ある。
自分は恵まれていると、己の生活を鑑みて思う。
食事が終わったら家事を済ませ、仕事道具の手入れをする。
父の形見はこのランタンと、ぶかぶかの外套だけだった。
真鍮製の黒いランタンを丁寧に磨き、中心に蝋燭を置く。
平民が使うのは獣脂で作られた蝋燭なので燃やすと嫌な臭いがするのだが、蜜蝋は高価すぎて手が出せなかった。夜毎に貴族が集う歌劇場や舞踏会場には蜜蝋がふんだんに使われ、きっといい匂いがするのだろう。
父が病気で亡くなって、もう五年。母は初めからいなかった。父は母のことを何も語ってくれない。父とリュシーは外見も性格も全く似ていないから、もしかしたら血がつながっていないのかもしれない、と時々思った。
それでも父がリュシーを愛情を込めて育ててくれたことに変わりはないから、リュシーは父にとても感謝している。
ランタンを磨きながら、父に思いを馳せる。
今はがらんとした部屋にリュシー一人しかいないが、数年前まで父と共に暮らしていた。
父は口数が少なかったが、リュシーが問い掛ければ色々と丁寧に教えてくれた。
ランタンの磨き方、蝋燭の火の灯し方。目を閉じれば今でも、父の穏やかな声とランタンを触る太い指先が脳裏に浮かぶ。
リュシーは父がこのランタンに明かりを灯して出かけるのを、いつも見送っていた。夜中に一人になるのは寂しいけど、仕事なので仕方がない。
「……いや、結構一人じゃなかったなぁ」
ぴたりとランタンを拭く手を止めた。
思い返すと、かなりの頻度で隣に住むアルフォンスとおしゃべりしていた。
父がいなくなってしばらくすると、部屋の隅の壁がたたかれる。それから隣との壁が半分崩壊している部分から、アルフォンスの顔がひょっこりと現れるのだ。 集合住宅は古いため、往々にしてこのような穴はどこの家にも空いている。
そうして他愛のない話をしていると、父がいない寂しさが紛れるのだ。
「暇だから」「寝らんねーから」などと言っては顔を出していたが、今思えばリュシーの気を紛らわせてくれていたのだろう。
実はアルフォンスは、前々からリュシーのことを気にかけてくれていたのだろうか。口が悪すぎて、全然伝わってこなかったけど。
リュシーはそっと、アルフォンスとよくおしゃべりをしていた壁に目を走らせる。流石に年頃になる頃には板を打ち付けて塞いでしまったが、数年前まではこの壁の穴からアルフォンスの顔が見えていたのだ。
「…………いつまでも、宙ぶらりんにしておいたらきっと怒るわよね」
その前にアルフォンスのことだから、顔を合わせるたびに「おい、俺と結婚する話はどうなった?」などと問い詰めてくるかもしれない。
不機嫌そうな表情の彼がありありと想像できて、リュシーは眉根を寄せて苦笑する。とりあえず一日二日で返事ができるようなものでもないから、何か言われたら「考え中」という他はないだろう。
そもそもリュシーのアルフォンスに対する気持ちが恋なのかどうかなんて、わからなかった。今こうして考えても、ときめきのようなものは感じられない。
ジャンヌに相談してみようかな、と考える。
ジャンヌは同い年ではあるが大人びていて、色気がある。恋人だっているし、きっと恋の何たるかはリュシーよりよほど詳しいだろう。
次にあったら聞いてみよう、と思いつつランタンを拭き上げた。
ランタンの手入れを終えたリュシーは部屋の窓を開ける。
通常、窓には全て木の雨戸が付いていて、夜には閉ざしておかなければならない。そうでないと家の中に「魔」が入ってくる危険性があるからだ。
火事になる可能性があるので、夜に家の中で蝋燭を灯すのは禁じられている。
だから都に住む平民は夕暮れには家に帰って夕食を済ませ、闇が街を覆う頃には眠りにつく生活を送っていた。
夜に明かりを灯せるのは、王侯貴族か彼らが出かける場所、もしくは金を払って明かりをつける権利を買い取っている中流階級の人々。そしてファロティエ。
ファロティエは平民が夜に蝋燭を灯す権利を持つ、唯一の職業だった。
今日もリュシーは外套を羽織り、フードを被って長い杏色の髪を隠し、男に扮してランタンを手に闇に染まった都へと足を踏み出す。
雑踏には朝や昼と違い、人の姿はほとんどない。
ランタンを持つ同業者と夜警官が、まばらに歩いて大通りへと向かっていた。
十五地区から歩いて三十分。第一地区付近がリュシーに割り当てられた客引き場所である。
ファロティエは夜警官と業務提携をしているので、客引き場所はきっちりと決められている。都の方々に点在するファロティエの蝋燭の灯りは、「魔」も強盗も殺人も事故も遠ざける役割を果たしているので、重要だった。
揺れるランタンの輪になっている持ち手を目線より高く掲げ、歌劇場から出てくる人に見せつける。
「ファロだよ。帰り道のお供にどうだい」
「そこの旦那、夜道を照らす明かりはどうかね」
「俺のランタンにかかれば『魔』だって寄ってこねえさ」
リュシーと同じファロティエの言葉が闇に木霊した。出てきた客は手近なファロティエを捕まえては硬貨を握らせ道案内を頼む。
今日も、天候は曇り。隠れてしまった月や星の代わりとして、ファロティエを求める人は多い。
リュシーの前にも一人の男がやってきた。まだ若そうなその男は、ステッキに縋りつきながらおぼつかない足取りで歩いている。近づくにつれて酒の匂いがぷんぷんして、相当飲んでいるなと思った。
「やあ、ちょうどよかっら。えーっと……第三地区のヴァロア通りまで頼むわ」
男は硬貨を取り出し、リュシーの掌に落とす。硬貨をポケットに入れたリュシーは、ヴァロア通りに行くべく足を動かした。
「しかし今日の歌劇は良かった。美貌の王子と平民の使用人が恋に落ちるというものだったんだが、結局身分違いの恋に苦しんで使用人が川に身を投げて死んでしまい、残った王子も毒を飲んで自殺をするという話だったんだ」
男はかなり酔っ払っており、千鳥足であっちこっちへふらつきながら上機嫌に喋り続ける。
「最近はそういう身分違いの恋を題材にした悲恋の歌劇が流行っているんらよ。ま、物語だからこそ成り立つ話らな。実際は王子様が平民に恋をするなんてあり得ないからなぁ」
「確かにそうでございましょう」
サンティエンヌは王族の住まうシルヴァ・ルイーヌ宮殿からすぐの場所にある都のため、多くの貴族も暮らしているし頻繁に見かけるのだが、彼らと恋に落ちるかと言われればそんなことは起こらないだろう。
上流階級とリュシーたち平民は完全に別世界に生きている。
搾取する側と、搾取される側。
明確に線引きのなされた関係。さまざまな要因から、両者は同じ都に住んでいたとしても水と油のように混じり合うことのない存在となっている。
リュシーとて日々、身分の高い人相手に商売をしているが、彼らと親しくなったことは一度もない。そもそも身分の高い人々は、リュシーたちのような平民に興味すらないのだ。彼らからすれば自分達など、端金で身の安全を保障してくれる便利な道先案内人でしかない。夜が明ければ忘れてしまうような存在だ。
男の話に適当に相槌を打ちながら歩いていると、目的の場所が近づいてきた。
第三地区のヴァロア通り。
第一地区と第三地区は隣接している。ブラウデル川沿いに東に歩いていけばすぐに辿り着き、やはり周囲は華やかな建造物に溢れていた。
「お客さん、ヴァロア通りに着きやしたよ。お屋敷はどこですかい」
「んん……いやいや何を言ってるんらよ。俺の家はヴァロア通りなんかじゃない。第四地区のルッサイオ通りの近くら」
「はぁ?」
聞き捨てならないセリフにリュシーは思わず聞き返した。しかし男は赤ら顔を顰めて、人差し指を左右に振る。あいも変わらず呂律が怪しい。
「なんだね、その不満そうな声は。私は最初から第四地区のルッサイオ通りだと言っらぞ」
「そりゃあないよ、旦那。第四地区のルッサイオ通りっつったら、ここから真逆ですぜ」
「君が聴き間違えたんらろう。早く行きたまえ」
男は横柄に命じると、渋るリュシーの外套をステッキでつつく。
「ほら、ほら。早く行きたまえよ。それとも他のファロティエにしたっていいんだぞ。まあ、その時には代金を返してもらうがね」
「ちぇ……わかりましたよ」
ここまできて代金を返すのも癪だ。リュシーは言われた通り、今度は第四地区のルッサイオ通りまで案内したが、しかしここでも男はゴネ始めた。
「違ぁう! 私の家は第五地区だ!」
「はああ⁉︎」
「何だここは、どこだね! 家は第五地区らよ、君ぃ!」
へべれけな男は怒鳴りながらステッキを振り回し、口角泡を飛ばしつつ叫び続ける。一体なんだというのだ。迷惑な客を捕まえてしまったな、と思いつつ、とうとうその場で足をもつれさせて尻餅をついた客に手を差し出した。
「旦那、ちょっと飲み過ぎじゃないか」
「そんなことは断じてない!」
「参ったな……結局家の場所はどこなんだ」
その後も男はあっちこっちと場所を指示し、行くたびにここじゃないそうじゃないと言い続け、結局家まで辿り着いたのはもう真夜中もとうに過ぎた頃だった。
男を引き取ってくれたのは、屋敷から出てきた年老いた女の使用人だ。彼女は顔を見せるなり、「あらあら、まあ」と言いながら男を引き取る。
「旦那様、また随分とお飲みになりましたわねぇ」
「しょんなことは、断じてない」
「はいはい。奥でおやすみになりましょう」
そしてちらりとリュシーを見ると、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさいね、旦那様、いつもこうなんです。今日は何時間くらいうろうろしていたんですか?」
「三時間くらいですね」
「あらあら」
言って老婆は人の良さそうな顔に呆れの色を見せ、短く息をつく。そして小さな声でそっと告げた。
「……実はね、旦那様、奥様に先月先立たれてからずっとあの調子なんです。一人でこの屋敷にいるのが寂しいんでしょうねぇ。かと言ってこのままだと、いつかファロティエにも愛想を尽かされてどこかで『魔』に取り憑かれそうで恐ろしくって……」
「酒を控えるよう伝えたほうがいいです」
「そうするわ。ありがとう。これ、追加の代金よ」
老婆はリュシーの手に硬貨を握らせると扉を閉めて屋敷の奥へと引っ込んでいく。
リュシーは屋敷の前から通りに出て、空を見上げて息をついた。今夜も曇りで、月は見えない。あの客を送る途中にも何度も銃声を聞いたから、きっと「魔」が活発に動いているに違いない。
(随分遠くまで来ちゃったな……)
川沿いを歩いていたのだが、第一地区からはかなり離れていた。平民が滅多に近寄らないこの場所はパルマントレの丘と呼ばれており、大貴族ポンドール公爵家の邸宅が小高い丘の上に建っていた。
公爵家の窓から漏れる煌びやかな灯りは、この下に広がる通りからでも良く見える。照明の光と対照的に通りには人がおらず、うら寂しい空気が漂っていた。
(ちょうど私が「聖なる光」を生み出したのも、この通りから三本入った路地裏だったっけ)
リュシーは方向感覚に優れていて、一度通った道ならば決して忘れない。
しかし五歳のあの日、父の仕事について行った時、リュシーは初めての場所で迷子になった。
リュシーがファロティエになると決めた日。
十二年前、リュシーの運命を変えた日のことだ。




