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「ねえジャンヌ。私変じゃない?」
「変じゃないよ、世界で一番美しい花嫁だね」
「本当に?」
「本当さ。ほら、姿見を見てご覧よ」
リュシーはジャンヌに促されて、隅に置いてあるひび割れた全身鏡に映る己を改めて確認した。
真っ白いドレスは、アルフォンスの母親がかつて着ていたものだという。今回結婚するにあたり、大切にしまってあったそれを快く貸し出してくれたのだ。
シルクの生地は非常に貴重で、平民にはまず手に入らない。アルフォンスの母は祖母から譲り受けたらしく、ずっとずっと受け継がれてきたのだ。
ジャンヌはリュシーの隣へとやってきて、姿見の中のリュシーを満足そうに眺めた。
「いいじゃないか。アタシの洗濯で新品みたいになったし、マリオンおばさんの刺繍でドレスも今っぽい感じになってる」
ドレスには袖口と裾に刺繍が施されていた。
マリオンおばさんというのも、十五地区に住んでいる住人だ。お針子として働いている彼女は結婚式のことを聞きつけると、張り切ってドレスに刺繍を刺してくれた。
杏色の糸で縫い取られているのは、星と月の刺繍だった。
貴族がつけるようなヴェールは無い。長い髪はアルフォンスの母がシニヨンに結ってくれた。
薄く化粧を施したリュシーを見つめながら、ジャンヌが満足そうな顔をする。
「いいね。このドレス、アタシが結婚する時に貸してもらえるよう、おばさんに言っておこうっと」
「きっと喜んで貸してくれるわよ」
十五地区は助け合い、支え合って生きている。だから結婚するからドレスを貸して欲しいといえば、笑顔で頷いてくれるだろう。
「さ、じゃ、アタシは先に礼拝堂に行ってるからね」
ジャンヌはひらひらと手を振って、扉を開けて出て行った。入れ違いにドアがノックされ、誰かと思えばアルフォンスが入ってくる。
アルフォンスは黒い礼服を着ていた。これはアルフォンスの父親が着たものらしく、リュシーのドレス同様にジャンヌが念入りに洗濯をしてくれた。
「いつもの警官服でいい」とアルフォンスは言ったのだが、アルフォンスの母が「せっかくの結婚式をこんな血生臭い服で出る気かい」と反論し、礼服を着るに至ったのだ。
礼服のアルフォンスはいつもより凛々しい感じがして、なんだかむずむずする。癖のある黒髪が後ろに流されているせいで、いつもは警官帽を目深に被っていてあまり見えない顔が露わになっている。
あれ、アルってこんなにかっこよかったっけ、とリュシーはドキドキした。
一方のアルフォンスも部屋に入りリュシーを一目見るなり、驚いたような表情で足を止めた。
こちらの気持ちを悟られないようにしつつ、リュシーは務めていつも通りの声で問いかけた。
「どうしたの?」
「いや……支度出来たかの確認なんだけどよ。お前、いつもと違うな」
視線を彷徨わせ、しどろもどろに言う様はアルフォンスらしくない。畳み掛けるようにリュシーは質問を重ねた。
「似合ってない?」
「すげえ似合ってる」
「ほんと?」
「こんな嘘つくか」
「でも、こっち見てくれないじゃない」
するとアルフォンスは大股でリュシーに近づくと、両手で肩を抱いてじっと見つめてきた。
思いもよらない距離の近さで覗き込まれ、今度はリュシーが動揺する番だった。
「ひゃっ」
「なんだよ、顔、赤いぞ」
リュシーの変化を見てとったアルフォンスが、口の端を持ち上げて意地悪く笑った。
「だだだだ、だって」
「何だよ」
「アルが……」
「俺が?」
「……か、かっこ良すぎる、から……」
「ふぅん?」
赤面するリュシーにアルフォンスがますます顔を近づけてくる。
「ちょっと、離れてよ」
「嫌だ」
「なんで!?」
こんな時まで意地の悪い男だった。
「お前、これから式なんだから、今のうちに慣れておけよ」
「そんなこと言われたって……! いつものアルと全然違うし。あっ、今から警官服に着替えない!? ほら、警官帽、被りましょう!?」
「嫌だね」
「アル、ちょ……んぅ!」
ぐいぐい迫ってくるアルフォンスを押し返そうとするリュシーの奮闘も虚しく、アルフォンスはびくともしなかった。それどころかリュシーの両頬を手で包み込むと、何の前触れもなく顔が近づいてきて口づけを落とされる。何が起こったのかわからずに頭の中が真っ白になったリュシーは、思わずアルフォンスの胸をぐいぐい押していた腕の動きをぴたりと止めた。
長いようで短いキスから解放されると、放心状態のリュシーをアルフォンスが目を細めて見つめる。その表情には間違いなく情欲が宿っていて、アルってこんな顔するんだ、と反射的に思ってしまった。
長く一緒にいるけれど、最近ではアルフォンスの知らない一面をたくさん見ている。
「リュシー、綺麗だ」
「アル……」
アルフォンスの唇が、再び迫ってくる。リュシーは目を瞑り、受け入れる態勢を整えた。今度は抵抗しなかった。
十五地区の片隅に小さな教会がある。
十日に一度の仕事が休みの日ともなると皆が祈りを捧げにくるこの場所で、リュシーとアルフォンスのささやかな結婚式が挙げられた。
真ん中から伸びるバージンロードをアルフォンスと二人で歩き、神父様のところまで行く。両脇のベンチには、顔馴染みの十五地区の住人が腰掛けている。居並ぶ人々の表情は穏やかで、皆、笑顔だった。
着飾る余裕のある人なんて一人もいないから、皆、普段着のままである。親方とオリバーは煤まみれの服を着ているし、ジャンヌもいつも洗濯する時に来ているワンピースだし、その他の人々も似たり寄ったりだ。
めかしこんでいるのは、主役のリュシーとアルフォンスだけだった。
建物が密集して立っている十五地区では、教会は昼でも薄暗い。
普段は獣脂の蝋燭で明かりを取っているのだが、今日はリュシーが手にランタンを持ち、聖なる光で礼拝堂の中を照らし出す。
左手をアルフォンスの右手に添え、右手でランタンをしっかりと掲げ持ち。
ランタンは、父の形見のあの無骨なものだ。
このドレスに合わせるのであれば、ジルベールから貰った白いランタンの方が似合っているだろう。
しかし、リュシーは迷うことなく父の形見の方を選んだ。誰も反対しなかった。そうした方がいい、という表情で皆、頷いてくれた。
リュシーは昨夜、このランタンをいつも以上に念入りにピカピカに磨いた。
乾いた布で何度も拭き上げ、溶けてこびりついた蝋を丹念に取り除いた。
もうこのランタンに、蝋燭は必要がない。これからはリュシーが生む聖なる光を入れて、夜道を照らし出すのだ。
(お父さん、見ている? 私、幸せになるよ)
このランタンを持っていると、亡き父が近くにいるような気がする。見守ってくれているような気がする。
人生の大きな分岐点にいる今、誰よりも父に側で見ていて欲しいから。
だからリュシーはこのランタンを掲げる。
風もないのに中に入った聖なる光が少し揺れた。
まるで、父が祝福してくれているようだった。
サンティエンヌの都の片隅、貧しい人々が暮らす十五地区の一角で、今、ひと組の新たな夫婦が誕生した。
二人の門出を礼拝堂にいる人々が祝う。
誰も彼もが幸せそうな顔をしていた。
ここに住む人々は皆貧しいけれど、闇に飲まれないたくましさと明るさを備えている。
聖なる光がランタンの中で一際大きく輝いた。
礼拝堂の中は、まるで真昼の広場にいるかのように、明るく眩しく照らし出された。




