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空が白み始めた。薄ぼんやりとした灰色の空を見上げ、無事に夜をやり過ごせたことにリュシーは安堵の息を漏らす。
昨夜は身入りが良かった。そこかしこで鳴る銃声に怯えた人々が我先にとファロティエを雇うので引っ張りだこだった。
貴族の夜会や舞踏会は、この数年で開催数が増えているそうで、危険を承知で夜に出歩く人が多い。どうも国の第一王子であるジルベール様が積極的にそうした社交の場に出るので、どこの屋敷でもこぞって催しを開くらしい。
これだけの収入があれば、今日は肉が買えそうだわとポケットの中に入った小銭を脳内で勘定しながらフードを外す。途端、リュシーの杏色の髪が肩にかかって散らばった。この珍しい髪色を、リュシーは自分では気に入っているので胸元まで伸ばしているのだが、如何せん目立ってしまうので男装している仕事中はフードを外せない。
夜が明けると街は騒がしくなる。新聞配達屋が都を駆け回り、パン屋はパンを焼き始め、女たちは川へ洗濯をしに籠を持って出かけていく。
リュシーは煌びやかな第一地区から離れた、北西の第十五地区に住んでいた。第一地区からは歩いて三十分ほどの場所だ。サンティエンヌの南東にある王族の住まうシルヴァ・ルイーヌ宮殿から遠く離れた場所にある十五地区は、貧しい人々が身を寄せ合って暮らす住宅街だった。
立ち並ぶ煉瓦造りの集合住宅はボロボロで、道幅は大人二人がすれ違うのも精一杯なほどに狭い。石畳は大通りとは違って、長年整備されていないせいでひび割れてボロボロだ。見上げればガラスさえはまっていない窓と窓を渡すように紐がかけられており、陽が昇るとそこからは洗濯物がぶら下げられる。
リュシーが自宅に向かう途中、モップとバケツ持った四十代と、まだ十代にも満たない少年に会った。煤に塗れて汚れたつなぎを着ている二人は近所に住む煙突掃除夫で、白髪混じりの髭をもじゃもじゃに生やしたおじさんが親方、少年はオリバーという名前の徒弟で、まだ八歳ほどだ。オリバーは十五地区の路地裏に捨てられていたところを親方が拾って育て、今は徒弟として共に働いている。
十五地区の人々は皆一様に貧しいが、だからこそ支え合って生きていた。
オリバーはリュシーを見つけると、モップを担いでいない方の手をぶんぶん振る。その体は冗談のように痩せているが、笑顔は元気いっぱいだった。
「リュシー、おはよう! 仕事終わり?」
「ええ、オリバーはこれから?」
「そう。今日は親方と一緒に第四地区のお屋敷の煙突掃除に行くんだ。えーっと、なんて名前だっけ……」
「ピエール・ド・デュポンドルール伯邸だ」
「そうそう、そのナントカルール様のお屋敷」
「お前覚える気ねえなあ? ったく、屋敷に着いたら余計なこと言わずに黙ってろよ」
「はーい、親方。それはそうと、アル兄ちゃんは?」
「別に一緒に帰ってきてないわよ。もうすぐ仕事終わるんじゃないかしら」
「ふうん。昨日の夜はずいぶん銃声が聞こえたけど、アル兄ちゃん大丈夫かな」
アルフォンスは十五地区の子供たちに護身術やらを教えているせいか随分と慕われていた。オリバーは煤のこびりついた指で頬をかきながら、心配そうな顔をして通りの向こうを見ている。
リュシーは少し身を屈めてオリバーの頭を撫でながら、にこりと微笑む。
「大丈夫、アルが強いの知ってるでしょ?」
「でも魔憑きの人間ならともかく、『魔』に銃は効かないんだろ? ばったり路地裏で行き合って、そのまま取り憑かれたりなんかしたらさぁ」
「アルはそんなヘマしないわよ。なんと言ってもこの十五地区きっての出世頭、夜警官の中でも優秀なんだから」
「そうか……そうだよな。リュシーが生きてるのに、アルが死んじゃうなんてないよな。どっちかって言えばリュシーのが先に死にそうだ」
「何よそれ、失礼ね」
うんうんと頷くオリバーは、リュシーの文句には取り合わずに顔を見上げた。
「で、リュシーはいつアル兄ちゃんと結婚するんだ?」
「えっ」
「なんだよそのびっくりした顔。十五地区の間じゃ、みーんなその話で持ちきりなんだぞ。一体リュシーはいつになったらアルの気持ちに応えるのかって……いてっ」
「おい、クソガキ。喋りすぎだ」
一方的に喋るオリバーの頭に拳骨を落として止めたのは、親方だった。殴られた頭をさすりながら、オリバーは親方を見上げて口を尖らせた。
「なんだよ、親方だって言ってたじゃねえか」
「こういうのは本人たちに任せりゃあいいんだよ。リュシー、ガキの戯言だ、真に受けるなよ。じゃあ、掃除に遅れちまうから俺たちは行くぞ」
「お仕事頑張ってくださいね」
「おう」
親方に半ば引きずられるようにして去っていくオリバーを見送り、リュシーは再び家路へと着こうとしたが、今度は後ろから呼び止められた。
「よう、リュシー、生きてたか。てっきりどっかの裏道でくたばってるかと思ったぜ」
振り向くと、制服も顔もべったりと血糊をくっつけたアルフォンスがこちらに向かって歩いて来る。警官帽を外し、癖のある黒髪をくしゃりと手でかきあげ、憎まれ口を叩いてきた。
「昨日みたいな『魔』がウヨウヨ出るような夜に、よく生き残れたな。褒めてやろう」
「要らないわよ、馬鹿にしてるの⁉︎」
「おう。お前一人取り憑けないなんて、案外『魔』も間抜けだな」
「なんなのよ、もう!」
出会い頭に憎まれ口を叩いた挙句、はっはっはと馬鹿にしたように笑うアルフォンスにリュシーは腹が立った。
「それにしても、貴族ってのはどうして危険を承知で夜に出かけたがるんだろうな。馬鹿じゃねえのか」
「おかげで私は仕事に困らないけど」
「酔っ払って路地裏に迷い込んで、『魔』に取り憑かれるなんざ傍迷惑な話だ。処分するこっちの身にもなれっつうの」
アルフォンスは心底いやそうに顔を顰めた。
オリバーは結婚がどうこう言っていたが、大きな誤解である。アルフォンスはリュシーをからかうのを生き甲斐としているとしか思えない。何せ最近では、顔を合わせる度にファロティエを辞めろだの何だのと言ってくるのだ。リュシーがこの仕事をどれほど誇りに思っているのかを知っている癖に、それでもなお意地の悪いことばかりを言ってくるアルフォンスの性格の悪さに辟易としていた。
いちいち相手をするのも馬鹿らしくなったリュシーは、踵を返すとさっさと歩き出す。
「おい待てよ」
「嫌よ。私もう帰るんだから」
「一緒に帰ろうぜ」
「嫌。ついて来ないで」
「ついて来ないでって、俺の家はお前ん家の隣なんだから無理に決まってんだろ」
「それでもついて来ないでよ!」
「おいっ」
もはや小走りとなったリュシーに追い縋るようにアルフォンスも駆け足になった。狭い十五地区の曲がりくねった迷路のような石畳を二人で走る。早朝のランニングに、窓を開けて換気をする人々が不思議そうな目を向けた。
「お前、なんでそんなに強情なんだよ! そんなんじゃ嫁の貰い手がなくなるぞ!」
「大きなお世話よ! そういうアルだって、恋人の一人もいたことない癖に!」
「俺はだなぁ……!」
「あらぁ、アルにリュシーじゃない」
「ジャンヌ、おはよう」
走りながら罵り合う二人の前に知り合いが現れた。真っ白いエプロンをつけて大きな洗濯籠を持ったジャンヌは洗濯屋を生業とする家の娘で、リュシーと同い年である。赤毛をひとまとめにした彼女は色気が漂っており、胸部が服の下で主張していた。同じ十七歳と思えない色気である。リュシーなんて仕事中、女であると見破られたことがないというのに、この差は一体なんなのだろう。
足を止めるとジャンヌはアルフォンスにずいと近寄り、鼻を寄せるとくんくんと匂いを嗅ぐ。そうして思いっきり不快そうに顔を顰めた。
「アルったら、なんてひどい。血と硝煙の臭いがこびりついてるわよ」
「昨日は魔憑きを大量に処分したから、しょうがねえだろ」
「お脱ぎなさいよ」
ジャンヌは手にしていた洗濯籠を石畳に置くと、アルフォンスの上着に手をかけて乱暴にひん剥いた。
「おいっ、何すんだ」
「わざわざ洗ってあげようってんだから、感謝しなさいな」
「頼んでねえ!」
「あらぁ、つれないわね。ほらほら、ネクタイもシャツも全部およこしなさい」
「やめろ!」
アルフォンスの抵抗虚しく、あっという間にジャンヌにより上半身を裸にされてしまった。いきなり素肌を外気に晒されてブルリと震えるアルフォンスに構わず、ジャンヌは脱がせた服を籠の一番上に乗せるとウインクをする。
「お代は洗濯物と交換でいいわよ。じゃ、またね」
ワンピースの裾をはためかせながら去っていくジャンヌをアルフォンスは恨めしげな表情で見つめていた。
「……あいつ、俺が夜警官始めてからずっとああなんだぜ。いいカモだと思ってやがる」
「まあ、実際アルってばいつも酷い臭いだからジャンヌは間違ってないわよ」
言うとアルは寒さを耐えるように腕を胸の前で組んで猫背になりながら、じっとリュシーを見つめた。
「お前だって大概な臭いしてるだろ、いつも獣脂臭い癖に」
「なっ」
「せめて蜜蝋を使えるファロティエになってみせろよ」
「言われなくたって、いつか蜜蝋どころか蝋燭すら必要のないルナ・ファロティエになってやるわよ!」
「ルナ・ファロティエ? お前まだそんなこと言ってんのか」
「そんなことじゃないわ。私だってなれるわよ」
「無理無理」
「なんでそんなこと言うの。私だって、聖なる光を生み出せたんだからね」
「一度だけ、しかも五歳の時の話だろ。もういい加減諦めろって。なあ」
「何よ」
「お前もう本当に、夢を追いかけるのも大概にしとけよ。諦めて、そんで……俺と結婚しようぜ」
「お生憎様、私はそんなにすぐに諦めたりしないんだから。それに結婚なんて……は……結婚?」
リュシーはアルフォンスの言っていることがすぐに理解できず、二度聞きした。じとりとアルフォンスを睨みつける。
「何を冗談言ってるの。またからかってるんでしょ」
「冗談じゃねえって。もうお互い十七歳だろ、お前は頼りにしていた親父さんも死んじまったし、この先ファロティエで一生食っていくなんて土台無理な話なんだから、俺と結婚して一緒に暮らそう」
リュシーの予想とは裏腹に、至極真剣な顔で言うアルフォンスに戸惑った。アルフォンスは一度だってリュシーのことを「好きだ」と言ったことはないし、勿論付き合ってなどいない。
ただ隣の家に住んでいて、幼い頃から遊んだり憎まれ口を叩き合ったりする仲だというだけだ。まさかプロポーズされるなんて夢にも思っていなかった。
突然アルフォンスがひどく大人びて見えて、リュシーは動揺した。
「おい、リュシー。なんとか言えよ」
「…………っ」
一歩踏み出して距離を詰めてくるアルフォンスに、思わずリュシーは後ずさった。そしてうわずった声で叫ぶ。
「そっ、そんな大事な話を今の変態みたいな格好で言われたって、信じられるわけないでしょ⁉︎ プロポーズするなら、時と場合を考えなさいよ!」
今のアルフォンスはジャンヌにひん剥かれたせいで、上半身裸にズボンと警官帽だけを被った状態である。とてもではないが、人に求婚するような格好ではない。
しかしアルフォンスは己の服装など全く気にしていない様子で反論した。
「貴族じゃあるまいし、服なんてなんだって構わねえだろ。それよりどうなんだ、俺と結婚するのか? しないのか?」
アルフォンスは冗談を言っているようには見えない。答えを急かされても、リュシーにはなんと返事していいかわからなかった。だってリュシーはアルフォンスのことを幼馴染としか見ていなかった。「結婚しよう」なんて言われたって、どうしていいかわからない。
「わ、わからないわよそんなの……」
「わかんないって何だよ」
「わからないものはわからないの!」
半ば怒るように言ってから、リュシーはもうすぐそこにある自宅の集合住宅の階段を登り、部屋へと入る。やたらに心臓がうるさいのは、階段を駆け上がったせいだけではないだろう。
「なんなのよ、もう……」
玄関でへたり込むと、顔を覆った。頬が熱い。なんで自分がこんなにも動揺しているのか、深く理由を考えるのが恐ろしかった。
(……私とアルが結婚する?)
嫌な気持ちはしない。しかし、どちらかというと動揺の方が大きい。
全く考えてもいなかったその将来に思いを馳せそうになり、ブンブンと首を横に振った。
(もしもアルと結婚したら、ファロティエを辞めさせられちゃう。それだけは絶対に嫌)
心配してくれるのは有り難いのだが、リュシーはファロティエを辞めるつもりは毛頭ない。
「とにかく一度、落ち着いて、この件はきちんと話し合うべきだわ。悩んでも仕方がないし」
リュシーは気持ちを切り替えるべく、朝食を取ってから眠りにつこうと狭い家の中を歩いた。




