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アルフォンスが引き金を引く直前。リュシーはアルフォンスに飛びついて首筋にかじりついた。衝撃と驚きでバランスを崩したアルフォンスは、とっさに拳銃を上に向けた。放った弾丸は漆黒の空に吸い込まれ、見えなくなる。リュシーの右耳のそばを熱がかすめ、銃弾が撃たれる音が鼓膜を揺らした。
「リュシー、何すんだ……!」
「ダメ、アルが死ぬなんてそんなの、いや!!」
リュシーはアルフォンスの首に抱きついたまま、力一杯叫んだ。声が震えても、涙で視界が滲んでも、それでも腹の底から言葉を振り絞った。
「やっと好きって、気づいたのに!」
「放せ! 俺がお前に襲い掛かったらどうしてくれるんだ!!」
「いやよ!!」
絶対に放さない。アルを悪魔になどさせやしない。
リュシーは今、心の底から願っていた。
(お願いよ、私に力があるのなら……あの時みたいにもう一度、聖なる光を!!)
ーー体の芯が熱くなる。思考が焼き切れそうなほどの熱が、確かな質量を持って襲い掛かってくる。アルフォンスの首からするりと腕を解くと、両の掌を胸の前でかざし、空間に意識を集中させた。
あの時のように、あの時よりももっと、強く。
自分の身を助けるためではなく、アルフォンスを助けたい。
想いが極限まで高まった時、カッと光が爆ぜた。
目の眩む閃光が迸り、一気に視界が白一色に染め上げられる。
闇夜に塗りつぶされた都がまるでこの界隈だけ真昼のように明るくなった。
あぁ、とリュシーは歓喜の声を心の中であげた。
(心が篭っていれば、誰にでも聖なる光は生み出せる)
以前に聞いたルナ・ファロティエの言葉が蘇った。そうだ、心が篭っていれば。単純だけど難しい。でも今ならば、最も容易く生み出せる。
リュシーは光の奔流の中で、一際強く願った。
「アルに取り付いた『魔』よ……消えなさい!!」
リュシーの生み出した聖なる光は、まるで真昼の太陽のように暖かく優しく、強い力を持っていた。
アルフォンスに取り憑いている「魔」が光を嫌がっている。アルフォンスの内部で苦悶に満ちた声をあげ、なんとか消えまいと抗っていた。
今リュシーは、聖なる光と「魔」のことを、はっきりと理解していた。
「魔」とは人々の悪しき感情が凝り固まり、具現化したものであるという。だからこそ、人が集まる都では「魔」が沢山出現し、夜毎に蠢き這い回る。虐げられている平民たちの、内に秘めた怨嗟の感情が可視化されたものなのだ。
一方の聖なる光というのは、心の底から出る強い希望の力だ。
誰かを、或いは自分を、死なせたくない。死んでたまるかという生への強い執着から生まれるものだった。
それは決して、己の与えられた運命に絶望するような人間には生み出せない力だろう。
どのような状況にあっても、生きる希望を忘れないーー強い心を持つ人のみに生み出せる、希望の光。
絶望の力の凝縮した「魔」と、希望の力の象徴である「聖なる光」。
(……あぁ、なんてあたたかいの)
あれほどまでに悩んでいたのが馬鹿みたいだった。こんなに簡単なことに気がつけなかったなんて。
アルフォンスの中の魔が小さくなっていくのが見える。怨嗟の声を撒き散らしながら、消えていく。
光は一際強く輝くと、徐々に収束し、リュシーの掌に収まるほどの大きさになる。ふわふわとリュシーの肩のあたりに浮かんで、周囲を照らしてくれた。
対峙するアルフォンスから立ち昇っていた影は完全に消え去っている。いつも被っている警官帽が地面に落ち、癖のある黒髪が顕になっていた。ぐったりとその場に膝をつくアルフォンスの体がぐらりと傾く。
リュシーは駆け寄ってアルフォンスの体を支えた。
「アル、大丈夫!?」
「……ああ。今の、お前が……?」
アルフォンスはにわかには信じられないような表情でリュシーを見下ろした。瞳が赤くない。元通りのアルフォンスを前にして、心の底から安堵し涙が込み上げる。ごまかすように首を何度も縦に振った。
「そうよ。言ったでしょ? 私にだって、聖なる光が生み出せるって……わっ」
リュシーがみなまで言う前に、アルフォンスによって抱きすくめられた。両手に込められている力が強く、胸板に押しつけられる。嗅ぎ慣れたアルフォンスの匂いが強く感じられ、いつも以上の距離の近さにドキドキする。
「アル、痛い、はなして」
「……よかった」
ぎゅうぎゅう締め付けてくるアルフォンスに、恥ずかしいやら痛いやらで離れるよう訴えかけたら、ポツリとそんな言葉が聞こえてくる。アルフォンスの顔はリュシーの左肩に埋められているので表情は見えないが、リュシーの髪をすくう指先が、発する声が、震えていた。
「俺がお前を傷つけなくて……」
「アル……」
アルフォンスは、己が魔憑きになって悪魔に成り果てるのを恐れているわけではなかった。悪魔になった自分がリュシーに危害を加えるのを恐れていたのだ。
あの時アルフォンスは、リュシーの目の前で躊躇うことなく引き金を引き、自殺しようとした。止めていなければ間違いなく弾丸はアルフォンスの頭部を貫き、絶命していたであろう。
己が死ぬことでリュシーを助ける。
その判断を瞬時にしたアルフォンスの覚悟と気持ちの深さを、リュシーは思い至った。
ところで、とアルフォンスは前置きをする。
「お前、さっき言ってたこと、本当か?」
「さっき」
「俺のことが好きだって」
おもむろに告げられた言葉に、リュシーはひゅっと息を呑んだ。そうだ、先ほどリュシーは勢いで告白していたのだった。しかも二回も。
しかしアルフォンスを好きだという言葉に嘘偽りはない。ようやく自覚した気持ちに少し気恥ずかしさを覚えつつ、おずおずと首を縦に振ると、アルフォンスはリュシーの肩口に埋めていた顔を持ち上げ、口の端を持ち上げた。
「やっと、俺はお前を手に入れたわけだ」
「やっと、っていうか……」
リュシーは視線を左右に彷徨わせた後、意を決して言う。
「気づいていなかっただけで、多分、ずっと、好きだったんだと思う……」
耳まで真っ赤になるほどの熱が顔に集まっている。先ほど聖なる光を生み出したのとは別の熱源が体から込み上げてきて、あつい。
アルフォンスはそんなリュシーの顔を満足げに眺めた後、もう一度強く抱きしめ、耳元で言った。
「離さねえから、覚悟しろよ」
「うん」
「結婚式、挙げるか」
「うん」
二人を照らし出している聖なる光が、まるで祝福するかのように少しだけ大きくなった。
どれくらいそうしていたのだろう。
無事を喜びあった二人は、どちらともなく離れ、手を繋いで歩き出した。
まだまだ夜は長いけれど、聖なる光のおかげでもう恐ろしさは感じない。ランタンはないけれど、聖なる光はリュシーがかざしている右手の掌の上で静かな光を湛えている。
「ねえ、アル。私、黙って抜け出してきちゃったから、一度ジルベール様のところへと戻らないと」
「あ? ああ……律儀だな。放っときゃいいんじゃねえか」
「ダメよ。前にも言ったけど、それで十五地区の皆に迷惑かけても嫌だし。それに伝えたいことがあるから」
「伝えたいこと?」
「うん」
リュシーは頷き、掌に灯る聖なる光を見つめた。
「ジルベール様にしか出来ないこと、お願いできないこと。私たちの暮らしを良くするために、知っておいてもらいたいこと……だから、あと一日だけ、私はジルベール様と行動を一緒にしたいの」
「そうか」
アルフォンスはキュッとリュシーの手を握る力を強め、短く答えた。
「お前がそう思うなら、そうすればいいさ」
「ありがとう、アル」
リュシーもアルフォンスの手を握り返す。アルフォンスの指はやっぱりゴツゴツしていたけど、聖なる光に負けないくらいあたたかく安心できた。




