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その日、煙突掃除人の親方と見習いのオリバーは仕事に手こずって帰りが夜になってしまっていた。親方が取ってきた仕事先は初めての場所だったし、長らく掃除されずに放置されていた煙突は汚れが凄まじく、煤を落とすのに一苦労だった。
もう真っ暗闇になった中を帰るのは薄気味が悪いし、追い剥ぎにでも遭いやしないかと心配になってくる。おまけに今日は新月だ。今にも暗がりから「魔」が出てくるんじゃないかと、オリバーはブルリと体を震わせた。
自分の背丈の二倍ほどもあるモップを担ぎながら、オリバーは隣を歩く親方に話しかけた。
「親方、もうすっかり夜だよ。やばいんじゃないか」
「あぁ、さっさと帰るとしよう」
時々出会う人たちはファロティエを連れているのに、親方とオリバーには彼らを雇うような懐の余裕はない。僅かな光源すらも持たないことが心細くてならなかった。リュシーかアル兄ちゃんがいればなぁ、とオリバーは考えて項垂れる。
今日の昼間は楽しかった。二人がご馳走してくれた食べ物はどれもほっぺたが落ちそうなほど美味しかったし、案内してくれた都は目が醒めるような美しさだった。いつもは行かないような場所に行き、いつも食べられないようなものを食べ、オリバーは胃袋も心も満たされていた。
誕生日なんてこじつけで、二人がオリバーを同情してくれていたんだと、とっくに気がついている。それでも二人とも絶対に「かわいそうだから」なんて言わない。その気遣いがまた嬉しい。
貴族の令嬢や奥方がたまにやる、孤児院への寄付や炊き出しとは大違いだ。あれは自分達の優しさや慈悲深さを他の貴族にアピールしたり、平民に施しを与えることで自己満足を得るためにやっていることだと、皆知っている。
本当に都に住む人々のことを考えるのなら、無茶な税金の取り立てをやめたり、自分達の暮らしを質素にしようと思うはずだ。だが彼らは絶対にそうはしない。足元で困っている平民たちを見ても態度を改めようとしないし、それどころか汚いものを見るかのような目つきを送ってくる。気まぐれに食料や衣服を与えて「いいことをした」という思いに浸るだけで、根本的な解決策は何も考えない。いや、知らんぷりをしているのだ。
結局のところ、自分達の生活水準を下げてまで平民の暮らしを向上させようという気持ちなんて、彼らの中には生まれないのだ。
搾取する側と、搾取される側。
この関係はきっと、ずっと変わることがないのだろう。
「おい、オリバー、まずいぞ」
オリバーがどんよりと思考に耽っていると、親方が切羽詰まった声を出す。
なんだい、と思って顔を上げると、ねばつくような気配が全身を刺した。まるで真冬に頭から冷水を被ったかのような嫌な寒気を感じ、思わず立ちすくむ。
「親方、これは……」
「……『魔』だ! まずいぞ、走って逃げろ!!」
親方に背中を押されても、オリバーの足は動かなかった。ただただ恐怖に支配され、まともな思考なんてできない。
そしてオリバーは、路地裏からぬるりと這って出てくるそれを見た。
大人たちからずっと聞かされていた「魔」は、実態のない影のようだった。
こんな暗闇の中でも見えるほどに暗くドス黒い影が蠢き、這いずっている。
話に聞くのとではまるで違う。この世の澱みを集めて凝縮したかのような影を前に、オリバーは地面に足が縫い付けられたかのように動かなくなった。
ガクガクと全身が震え、嫌な汗が背中を伝う。口からは声にならない声が漏れた。
「う……あ……あう」
「オリバー!! おい!!」
親方が急かし、オリバーの腕を引っ張った。その瞬間、突如オリバーの体に自由が戻った。鉛のように重かった足が動き、まるで重力を感じさせないかのように、やせぎすで小さな体が軽くなった。
「う、う、うああああ!!!」
オリバーは叫んだ。叫びながら無我夢中で走った。
「オリバー、どこへ行く!!」
追い縋る親方を振り向きもせず、オリバーはとにかく両足を動かした。ペラペラの薄い靴底を割れた石畳が突き破り、足の裏を刺してもお構いなしだった。手にしているモップやバケツといった掃除道具も気づけば途中で捨て去っていた。
戻れ、戻れという親方の怒鳴り声を無視して、本能のままに走った。
「はっ、はっ、はっ……!! うわっ」
凸凹した道に足を取られて転んだ時、ようやくオリバーの足が止まった。
両側は無理やり増築を重ねた建物に阻まれ、目の前は壁だった。完全な闇に飲まれたサンティエンヌの袋小路の片隅にオリバーはうずくまっていた。密集して建っている集合住宅の中に人はいても、オリバーを助けるような真似はしまい。
月のない新月の夜に外に意識を向けるような酔狂な人間は、この都には存在しないのだ。
やがて袋小路の上から、ぬうっと何かが這い出てくるのを感じた。
それは先ほど出会ったのと同じ、嫌な空気をまとわりつかせている影――「魔」だ。
オリバーは跳ね起きると、後退りをし、そして尻餅をついた。
「あっ、うぁっ、く、来るな、来るなよぉおおお!!」
オリバーは絶叫しながら両手を無茶苦茶に動かした。「魔」はオリバーの頼みなど聞いてはくれない。むしろ喜ぶかのように形のない黒い泥のような影をくねらせ、震えながらオリバーに近づいてくる。
「魔」に取り憑かれた人間の末路を思い出し、オリバーはゾッとする。もしオリバーが魔憑きになったら、人を襲う悪魔へと成り果てて最後には銃殺されてしまうのだ。
嫌だ、そんなのは嫌だ。
四つん這いのままに逃げて生への執着を見せるオリバーを嘲笑うかのように、「魔」が迫る。この暗闇の中、なおも影を落とす「魔」がオリバーを飲み込もうとした瞬間――オリバーの体が持ち上げられた。
「馬鹿野郎、こんな袋小路に逃げ込む奴があるか!!」
「アル兄ちゃん……!?」
オリバーの体を容易く抱え上げ、荷物のように抱えたのはアルフォンスだった。アルフォンスは右手に松明を掲げ、左手にオリバーを抱えながら「魔」から距離を少しでも取ろうと、元来た道を戻り出す。
「知ってる声が聞こえたと思ったら、親方とばったり会ってな。お前がどっかに走り去っていったっつうから声を頼りにこうして追いかけてきたんだ」
「兄ちゃん、ありがとう……おれ、おれ……怖くて……」
「馬鹿、まだ助っちゃいねえよ」
アルフォンスは言いながら、地面を蹴って両脇に迫る集合住宅の壁を駆け上がった。今しがた走っていたところには、別の「魔」が蠢いていたのだ。
器用にも壁を蹴って「魔」を避けたアルフォンスは再び石畳に降り立つと、速度を緩めずに疾走しつつも舌打ちをした。
「今夜は『魔』の数が尋常じゃねえ。松明の炎も気休めにしかならねえな」
「ごめんよ、アル兄ちゃん」
「まあ、さっさとこの暗がりから出て、大通りに行くぞ……っと」
アルフォンスは急に足を止めると、暗がりに松明の炎を向けた。行く手を阻むように一際大きな影の塊がうぞうぞと動いている。
オリバーは抱えられながらも思わずアルフォンスの服の裾を握った。
影は縦にも横にも大きい。脇をすり抜けるのは不可能で、かといって先ほどのように壁を伝って飛び越えるのも難しそうだった。
「おい、オリバー。俺が松明の炎で隙を作って、お前を投げる。この道を出たらもう大通りだから、あとは走って十五地区まで行け」
「兄ちゃんは……」
「俺ぁまあ、なんとかなるだろ」
アルフォンスは短く言うと、右腕を前に伸ばして松明を掲げ持ちながら「魔」に向かって突っ込んでいった。炎を前に一瞬、「魔」がたじろぐ。そこにできた穴をアルフォンスは見逃さなかった。左腕をおおきく振りかぶって、穴めがけてオリバーを放り投げる。狙い違わずオリバーは「魔」に触れることなく大通りへとまろび出た。
飛び起きたオリバーは、すっかり厚く覆われた「魔」の向こうにいるはずのアルフォンスを呼びかける。
「アル兄ちゃん!!」
「走れ、オリバー! 止まんなよ!」
「兄ちゃん、おれ、嫌だ!」
「行けよ!!」
声と共にオリバーの足元を銃弾が一発掠める。アルフォンスが「魔」越しに放ったのだろう。オリバーにここを立ち去れと命じているのだ。
「…………っ!!」
オリバーは歯を食いしばり、断腸の思いでアルフォンスに背をむけて大通りを走り始めた。あれほど大きな「魔」に阻まれてしまえばアルフォンスにだってどうすることもできないだろう。別の道から大通りに出ることも、きっと難しいに違いない。路地裏には無数の「魔」が徘徊しているし、夜が深まるにつれて数は増していく一方だ。
(おれのせいだ、おれが、めちゃくちゃに走ったから、アル兄ちゃんを危険な目に合わせたんだ……!!)
込み上げる涙を抑えきれず走るオリバーは、どうにかアルフォンスを助けられないかと考え――そして思い至って足を止めた。
「そうだ、聖なる光だ……!」
「魔」を退ける唯一の力。聖なる光さえあれば、この月のない夜でも「魔」が逃げ出すという。
オリバーは通りの向こうを見た。
こんな危険な夜であるにもかかわらず、丘の上の邸宅ではカーテンの隙間から蝋燭の光が漏れ出て、まるで空に輝く星のように煌めいている。
昼間リュシーとアルフォンスが案内してくれた場所の一つ。
パルマトレの丘の上に立つポンドール公爵邸。
夜毎貴族が集まるその場所には、帰り道を安全に進めるようにお抱えのファロティエが集まっているらしい。中には当然、聖なる光を生み出せるルナ・ファロティエも。
これだ、とオリバーは思った。
どうにか説得してルナ・ファロティエを連れ出し、アルフォンスを助けてもらおう。それしかない。
オリバーは大通りを横断した。
走って走って、小高い丘の芝に足を取られつつも登り、ポンドール公爵邸の鉄柵に近づいた時――ちょうど、柵の内側にいる一人の人物と目が合う。
杏色のドレスとケープに身を包んでいるのは、オリバーもよく知る人物だった。
いつもよりも可愛らしい格好をして髪を綺麗に整えているその人物は、オリバーを見るなり鉄柵に近づいてきた。庭にまで贅沢に焚きしめられた蜜蝋の光を受け、ドレスと同じ杏色の髪が反射して煌めいている。嗅ぎ慣れた獣脂の蝋とは異なる甘く芳しい香りが、走り疲れた肺いっぱいに入り込んできてクラクラした。
ただならぬ様子のオリバーを見て、知人であるリュシーは目を見開いた。
「オリバー、どうしたの?」
「リュシー、大変なんだ! アル兄ちゃんが、『魔』に追いかけられて……!」
「‼」
その短い言葉だけでリュシーには全てがわかったらしい。色づいた薄いピンク色の唇がはっと息を飲み、形のいい瞳の中で瞳孔が縮む。それから一度鉄柵から離れ、庭にいる面々に向かって大声を出した。
「あの、知り合いが『魔』に追いかけられているんです。この中のルナ・ファロティエのどなた様か、一緒に助けに行ってくれませんか!?」
一団からどよめき声が上がる。
「なんと、『魔』に……」
「しかし我々には帰りを待つ主人がいる」
「勝手にここを離れるわけにはいかんのだよ」
「仮に留守にしている間に主人が戻ってきたら、大目玉だからな」
「娘さん、かわいそうだがその知人のことは諦めた方がいい」
一団からは色よい返事がもらえなかった。オリバーは鉄柵越しに会話を耳にし、落胆する気持ちを抑えられなかった。
「誰か一人でいいんです。ルナ・ファロティエなら新月の夜に出る『魔』も打ち払えるでしょう!? お願いです、私の、大切な幼馴染なんです!」
「おれからもお願いだよぉ、お願いだから、アル兄ちゃんを助けてくれ!!」
二人の必死な訴えも、彼らの心を動かすには至らなかった。
少し考えれば、わかることだ。
ここで誰かがアルフォンスを助けにいけば、仕事中に勝手に持ち場を離れたということで解雇されてもおかしくない。せっかく手に入れた貴族の専属ファロティエとしての地位が失われるかもしれないのだ。一度信用を失った者がまた同じ仕事にありつける可能性は低い。安全な場所でぬくぬくと主人の帰りを待ち、馬車の上から光を照らし、収入だって抜群にいいだろう今の仕事を手放してまで、見ず知らずの人間を助けに行こうなんて考えるファロティエはここにはいないのだ。
落胆する気持ちでオリバーが俯きかけると、リュシーの声が耳に聞こえてきた。
「もう、いいわ。頼まないから」
「おい、お前さん、お待ちなされ」
「ジルベール殿下のファロティエがいなくなったらいかんだろう!」
そっと目を上げると、周囲の制止を振り切って鉄柵に近づいてきたのはリュシーだった。
「オリバー、場所はどこなの? 案内して」
リュシーは鉄柵を伝って鉄の門扉まで行くと、背丈の三倍ほどもある門をこじ開けて隙間から外へ出た。
「君、勝手に出てはいかんよ、主人の帰りを待たなくては」
「うるさいわね、それどころじゃないのよ! 知り合いが死ぬかもしれないのよ!?」
リュシーは門番の苦言を一蹴して鉄門を開けると、外へと転がるように出る。
「リュシー……」
「ねえオリバー。私はルナ・ファロティエじゃないけど、こんなに燃え盛る蜜蝋を持ってるのよ。きっと『魔』だって嫌がると思わない?」
今のリュシーは髪を整え化粧を施し、綺麗な服を着て、華奢な白いランタンを持っている。どこかの良家のお嬢様と言われたら信じてしまいそうなほどに、別人のような外見をしている。
けれど、中身はいつもと何ら変わりがない、オリバーがよく知るリュシーだった。
「リュシー、おれ」
「何も言わないで。さ、早く行きましょう。アルを助けに!」
「……うん!」
よかった、と思う。どんなに綺麗な格好をしていても、リュシーはリュシーだ。
込み上げる涙をゴシゴシと拭くと、オリバーは力一杯頷いた。




